白蘭宮
馬車の速度が緩む。ほとんど揺れないで止まる。
貴人を乗せているからだろうか、運転が丁寧で快適だ。乗り合い馬車の、座っている内にお尻が痛くなるような、酔って吐きそうになるような振動がない。
「到着しました。どうぞ、お降りください」
御者さんが扉を開けてくれる。
ソーロン王子の移動とは乗り合い馬車を使うものではないようで、馬車を御者ごと借りるのが普通らしい。今までピペルパン通りに来たときもそうしていたようで、すでに御者さんとも知り合いみたいなやりとりをしていた。
「さ、アネッタ。手をどうぞ」
「あ……ありがとうございます」
ソーロン様が差し出した手を取る。馬車の段差くらいは一人で降りられるのに手を貸してくれるだなんて、まるで王子様みたいだなって思って、本当に王子様じゃないのと混乱してしまう。
エスコートの手で支えられ、逆の手でスカートの裾を踏まないように少し摘まんだ。贈ってもらったばかりのドレスの生地はスベスベで触り心地がよくて、わたしの手垢でこの一切のムラのないエメラルドグリーンが汚れてしまったらどうしようって心配になる。
足元に注意しながら馬車を降りる。地面に立って、ソーロン様の手を離して……そうして、顔を上げる。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。遠くに輝くような白の王宮が見えた。
白蘭宮。白い蘭の花をイメージさせる、巨大で美麗な宮殿。王国の中心。王様の住む場所。
それが広い広い庭園の向こうに存在していた。すごい、って言葉も出てこない。大きくて美しい建物って、それだけで感動するんだ。
「もしかして、見るのも初めてかい?」
「えっと……はい。中央区に来ること自体がほとんどないので」
前に中央区を訪れたのは、家族と博物館に行ったときだったか。まだスキル剥奪屋を開く前というか、そもそもスキルが発現していなかったころだ。
中央区の王立博物館は白蘭宮にも近いけれど、館内を回るだけでも一日かかるっていう広さだから、ついでに宮殿も見ていくかみたいなことにはならなかった。
本や雑誌で見たことはあったけれど、こうして実際に目にするのは初めて。
「いいねいいね。連れてきたかいがあったってものさ。でもこれくらいで驚いていちゃダメだよ。これからあの中に入るんだからね」
ニコニコと笑いかけてくれるけれど、本当に? そしてなぜ? まだ理由を聞いていないんだけど。
ここまで来てもなんだか現実感がない。今日も一日中、家で店番している予定しかなかったのに。
「すまないけれど、ここから先は許可を得た馬車しか入れないんだ。いくら僕様がいてもね。だから少し歩かなきゃならないんだけど、せっかくだから散策しながらいかないかい? うちの腕のいい庭師たちの仕事を自慢させてよ」
「ソーロン様が自ら案内していただけるんですか?」
「もちろん。レディをエスコートするのは紳士の誉れだからね」
前に、ロアさんもそういうこと言っていた気がする。わたしじゃなくてトルティナにだったけれど、紳士ってそういうものなんだ。
でも王子様に宮廷庭園を案内していただくなんて、わたしみたいな町娘には贅沢すぎないか。
けれどどうせ王宮へ行くついでだし、せっかくの申し出を断るのはどうなのか。
「では、よろしくお願いします」
「よしきた。じゃあ、この季節の花が咲く花畑エリアから行こう。水路沿いに行くと噴水が見えてお得だよ。そろそろ海向こうの大使がくれた観賞花が咲いてるはずだ」
それお庭の話なんですよね……。いえ、王宮なんだからそれくらいあってしかるべきなんだけど。
住む世界が違うなぁ。
御者さんとお別れして、ソーロン様が門番さんと少し話して、それから二人で門をくぐった。わたしは止められることなく庭園内に入る。
本当に入ってしまった。……いや、でもまだ時期によっては一般解放もしてる場所のはずだから。
「この王宮の別名は白蘭宮。白くて、上から見ると四つの花びらみたいな形をしてるからそう呼ばれる」
正門からまっすぐ、王宮までの石畳が続いていた。大きな二頭立ての馬車が余裕をもってすれ違える広さだ。おそらく本当に馬車が通る道なのだろう。
そんな最短距離を避けて、ソーロン様は迂回する道に入った。そっちに噴水があるのだろう。
「元々この国は武力によってできたって歴史があってね。南からやって来た緑の手の聖女伝説は知ってると思うけれど、彼女が来るまでこの辺はけっこう荒野でさ。乱立した小さな国々が少ない資源を奪い合うような、不毛な戦いに明け暮れる土地柄だった」
「聞いたことがあります。そんな戦いの歴史を、凄いスキルを持っていた建国王様が武力で終わらせて、今のこの国ができたと」
「そうそう。でも、それは建国王が凄かったから為し得たことで、建国王が身罷られればまた王国はバラバラになりかねなかった。だから次期王も建国王のような強いスキルを持つことを求められたし、それが伝統になっていったわけだね」
わたしは本を読む方だから、その辺りの歴史についても多少は知っている。史実を元ネタにした小説とかもあったし。
たしか建国王様がこの辺りを平定してから、聖女が現れるまでは何度も滅亡しかけたんだっけ。主に内戦で。他の国はこんな貧しい国を侵略する気にもならなかったとか。
「そして聖女が現れて大地に緑が溢れて、豊かになったこの国はやっとマトモな運営ができるようになった。急速に発展したら他国に目をつけられて侵略されたけれど、凄いスキル持ちの王族率いる歴戦の強者たちが叩き潰した。そうしてるうちにこの国は、いつの間にか大国と呼ぶに恥じなくなった」
正直、今のこの国に住んでいる身としては実感が湧かない歴史ではある。
けれどその過去は、確かにあったのだ。
「でも、もうそんな血なまぐさい歴史はお別れしよう。武による平定ではなく、文明による平和を目指そう、ってね。そういう願いを込めて、先々代の国王はこの宮殿を建設し、戦うための古い王城を取り壊す計画を立てた。実際に宮殿が完成したのは先代の国王の時代だったけれどね。だから白蘭宮は花のような形をしているし、その庭園は美しいもので溢れている。さぁ、そんな白蘭宮が誇る、最高の花園をアネッタに見せてあげよ――」
「――おかえり、兄様」
ソーロン様の声が遮られる。
聞き覚えのある声。同性のわたしでも聞き惚れてしまいそうな、凜としたハスキーボイス。
「とてもご機嫌のようでなによりです。なにか良いことでもありましたか?」
「やあセレスディア。君の天啓の導きかい? 相変わらず気持ち悪いスキルだよね!」
いつの間にか行く先に姿を現していた男装の麗人に、ソーロン王子は満面の笑顔で挨拶を返す。




