精神世界なんて入らずとも
ソーロン王子の指がテーブルの上のお菓子に伸びる。お茶だけじゃなくなにかあった方がいいのではないか、と思って用意したのだけれど、王族の口に合うだろうか。ダメかもしれない。ただのクッキーだし。
焼き菓子はけっこう日持ちするからたまに買うのだけれど、値段はそんなに高くないものだ。
「おお、美味しいねこれ。僕様好みの味だよ。硬めに焼いてあるのがいい。隠し味はメープルシロップかな。君の手造りかい?」
「ピペルパン通りのお店の、人気の品です。隠し味まで分かるのはさすがですね」
「へぇ、砂糖が広く国民の間で使われるようになったのを実感するね。パティシエのように見た目を重視して仕上げるのではなく、素朴だけど丁寧に作ってある」
良かった。あのお店の腕が良くて本当に良かった。
あとこの人、味覚は鋭いけど高級なものじゃなくちゃダメって舌じゃなさそう。バーベキュー大会のときも美味しそうに食べてたし。
本当に気に入ってくれたのか、ソーロン王子のしなやかな指がまたクッキーを摘まむ。
「僕様はね、当然だけど生まれたときから第二王子でね」
そう遠い目をしてから、カリ、とソーロン王子はクッキーを囓った。ゆっくり噛んで飲み込む。
「兄は人の良い秀才タイプで、妹は生まれたときから天才で破天荒でね。子供のころから僕様は引き立て役を求められたんだ。兄を尊敬する弟で、妹を自慢する兄であれとね」
第一王子様は……なんという名前だっただろう。あんまり話題になる人じゃないから忘れてしまった。けれど悪い噂とかも聞かないし、普通にしてれば王様になる人だ。
そして妹は……セレスディア様かぁ。天恵スキルでの天啓持ちで、お姫さまなのに普段はドレスではなくスーツを着こなす男装の麗人。
そんな二人に挟まれた彼は王族なのに、子供なのに、脇役であらなければならなかったのだろうか。
「ロイヤルスキルが発現せず変な噂が立てられてからは、とりあえず静かにしてることを求められたよ。しばらくはパーティとかも欠席させられたし、外に出ることも制限されてね。あれはつまらなかったな」
それたぶん、わたしも知ってる。
王様の子供じゃなくて、王妃様が浮気してできた子じゃないかっていう不敬な噂。
わたしでも知っているということは、彼の周りで知らない人はいなかったのではないか。
「あまりにつまらなくって王座を狙おうと思い立ったんだけど、そしたら今度は僕様を利用しようとする相手が寄ってくるようになった。でも虎視眈々と悪いことを企むキレ者よりも、公務をサボって遊び呆けるうつけ者を求められたのは意外だったな。みんなリスク覚悟で一発逆転より、バカをおだてて甘い汁を吸う方を狙うんだ」
第二王子はうつけ者だって、聞いたことはある。それも、求められて被った仮面だった。
この人は常に求められて、それに応えて生きてきた。
「――まるで常に仮面をつけているよう、か。上手いことを言う。そうだね、誰にも素顔を見せることはないよ。誰もソーロンを見ようとしないからね。誰も僕という個人に興味はない。みんなが求めるのは、この国の第二王子という仮面だけさ」
僕、と。ソーロン王子はまた、自身をそう呼ぶ。これで二度目。
それはきっと、王族ではない彼だった。
「だから、このソーロンの仮面の奥に話しかけたのは、君が最初かもしれないな」
そんなことはないでしょう、なんて。無責任に言える性格だったら良かった。
「王族としての、複雑な立場に立たされた者としての、ソーロン様のご心労。わたしにはとても想像できるものではないと思います」
「ハハハ、簡単に分かるだなんて言われたら殺してたかもしれないね」
ジョークですよねそれ?
「なぜ?」
短い問い。たった二音。
主語のないそれは、だから本当に知りたくて聞いているのだなと察することができて。
わたしは応える。
「指を鳴らしてみたんです」
わたしがソーロン・エルドブリンクスという青年に抱いた感情は、彼の孤独を察して覚えた感情は、決して憐憫ではなかった。彼は哀れむには強すぎた。
共感でもない。彼とわたしの事情は違う。
あえていうなら、親近感。共に心の仮面を被る者として。
「すぐに指先が痛くなりました」
親指と中指の先をくっつける。力を入れて、親指を人差し指の方へ弾くように滑らせる。
ピアノの音どころか、擦れた音しかしなかった。
「これをピアノの音が出るスキルになるまで練習するなんて、すごいなって。それで、なんでだろうって」
わたしはスキル剥奪屋さん。人見知りで人と関わるのは苦手であんまりお客さんは来ませんようにとお祈りするようなダメ店主だけれど、ハズレスキルで困っている人のスキルを剥奪して、お悩みを解決できたときだけは少しだけ嬉しくなる。
人に喜んで貰えれば、こんな自分にも価値があるように思えるから。
「誰かに聞いてほしくて頑張ったのかな、って思ったんです」
それを、もう要らないと言ったのかなって。
ならきっと彼は、自身が自分であることを諦めているのだろう。




