王子のサイン
「もしかしてソーロン・エルドブリンクス様は、とてもいい王子様なのでは?」
リレリアンのお肉屋さんから出て、わたしの口からは自然とそんな言葉が漏れた。
昨日のバーベキュー大会ではみんなの注目を引いてくれたし、今日はザールーン教への勧誘を断っても嫌な顔一つせずにいてくれた。それどころか指ぱっちんでピアノを奏でるなんていう、軽快なジョークで場を和ませてくれた。
彼のおかげでわたしは今、とても気が楽だ。
なんだろう。平民とも分け隔てなく接してくれるというか、一緒に楽しんでくれるというか、高貴な相手であることを忘れてしまう。そんな人。
もしかしたら気を遣わせてしまったのかも? とか考えてしまうけれど、思い起こす彼の笑顔はそんな疑問をも笑い飛ばすようで。
いつものような後悔なんてしようとも思わない。だってきっとあの人は気にもしていないから。
「わたしのスキルにあんまり興味がなさそうだったのは、安心したような、残念なようなって感じだけど……」
正確には、面白そうだと思われたけれど、すぐに話が逸れてしまう程度でしかなかった感じ。
スキル剥奪は珍しいスキルではあると思う。少なくともわたしは、このピペルパン通りで同じようなスキルを持っている人は知らない。
というか、たぶん王都でもかなり珍しいものなんじゃないかって、最近は思い始めた。だってセレスディア様とか、軍でも偉い人っぽいグレスリーさんとか、どう見ても貴族なカレンさんとかが来るくらいだし。
なかなか珍しいし、リスクはあるけれど有用だし、あの人好みだと思ったのだけれど……。
いいえ。きっとわたしは、ちょっと自意識過剰だったんだろう。
わたしのスキル剥奪は、ハズレスキルで困ってる人にしか必要ない。それも、スキル封印具で十分な人にはいらないものだ。
ソーロン様は変なスキルは持っているみたいだけどハズレスキルは持っていなさそうだし、ザールーン教の信徒だから封印具も普段から付けている。そんな人にとってわたしのスキルは、騒ぐほどのものではなかった。それだけなのだろう。
「おはよう、アネッタ殿。機嫌が良さそうだな」
声をかけられて、振り向く。……まずい、ニヤニヤしていなかっただろうか、なんて思いながら。
「あ、ロアさん。おはようございます」
そこにいたのはロアさんで――なんだか、いつもより険しい顔をしていた。
「リレリアン殿の肉屋から出てきたところを見ていたが、今日は買い物か?」
「はい。昨日の鹿のお肉が美味しかったので、今日はそれをシチューにしようと思いまして」
「それは……ああ、良さそうだな。きっと美味いだろう」
ロアさんの舌はちょっと信じられないけれど、鹿肉の煮込みはきっと美味しいと思う。今日はちょっと贅沢にいい部位を買ったし。
「ところで、君の少し前に出てきたのは……あれは、ソーロン王子ではなかったか?」
おや。どうやらロアさんは、お肉屋さんから出てくるソーロン王子を見たらしい。
「ええ。わたしも驚きました。まさか昨日の今日でまたピペルパン通りに来てるなんて思いませんでしたから」
「本当にな……。なにか話したか?」
「はい。リレリアンのお店で取り扱っている珍しいお肉を買いに来たそうです」
ロアさんの眉間にシワが寄る。そういえば元々知り合いのようだったし、ソーロン王子がここにいるのは明らかにダメなのだから、この人がそういう表情をするのも当然か。
というか、むしろわたしたちがおかしいか。一国の王子様になにかあったら大変だもの。ソーロン様があんな感じだから感覚が麻痺してるのかも。
「あとはそうですね。スキルについて少し。わたしがスキル剥奪を使えるという話をしたら、指をピアノの音色で鳴らすスキルも取れるのかと……」
「それはいったいどんなスキルなのだ……いや待て、スキル剥奪のことを話したのか?」
話すつもりはありませんでしたが、リレリアンが言ってしまったんです。
「はい。ですがそこまで興味は持たれなかったみたいで。たぶん、ソーロン王子は厄介なハズレスキルは持ってないのでしょう」
「ふむ……」
厳しい顔をして俯き、考え込むロアさん。
なんだろう。妙に真剣な顔だ。今の話のどこにそんな、考えることがあったのだろう。
「……ただの偶然と考えるのは……しかしなぜ?」
ロアさんの視線は道の先へと向いていた。おそらくはソーロン王子の去った方向だ。
乗り合い馬車の停留所がある方向……いや、王子様なのだから、個人用の馬車か自動車か、専用の移動手段があるのかも。でも、ソーロン王子はなんだか普通に乗り合い馬車を使ってそうなイメージがある。
「ソーロン王子がなにか?」
「ああいや。その……マルクがな。ソーロン王子に昨日サインをもらい忘れたと言って、追いかけて行ったのだよ。私は人違いだと思っていたのだが、そうか本人だったか」
ああ、なるほど。本当にソーロン王子だったのかを疑っていたらしい。
あの金髪と王子様然とした風貌は目立ちそうだけれど、きっとロアさんが見たのは遠目だったのだろう。
たしかに、なぜ? って思うのも無理はない。一国の王子様がお肉屋さんから出てきても見間違いだと思うだろう。わたしの説明を聞いても、こんな場所までお肉を買いに来ただけなのか? って疑いたくなる気持ちは分かる。
でも、あのソーロン様だからなぁ。本当にお肉を買いに来ただけでも、おかしくない気はするけれど。
「そういえば、わたしもサインをもらい忘れましたね」
もしソーロン王子様にお願いしていたら、たぶん王子様の手を煩わせたことに後悔して吐いてたと思う。
だから忘れていて良かったのだけれど。でも、少しだけ惜しいなって思った。
ソーロン王子ならきっと、快く書いてくれただろうから。