大きな虹
馬車を降りる。北区から西区へ、今の住処へ帰ってくる。
だいぶん雲は薄くて雨は小降りだが、まだ止んではいない。
カレン嬢との食事会は早めに終わることになった。正直、途中からずっと気まずかった。まだ前菜しか来てないのに切り出す話ではなかったと思う。
正式な見合いではないとはいえ、貴族でもない相手に恋をしたから貴女と結婚できませんと暗に言って来たのだから、きっと今後いろいろと問題になるだろう。
だがそんな未来のことは、今は考える気にならなかった。
馬車が見えなくなるより前に、隣家へ向かう。
予定より早くは帰って来られた。だが、あれからかなりの時間がたっている。アネッタ殿は大丈夫だろうか、と。ただそれが心配だった。
ミクリを向かわせたから、トルティナ殿が直接的な危害を加えようとしても防ぐことはできるだろう。だが言葉どうにもならない。しかもそれが悪罵の刃ではなくジワリと効く呪いの類なら、いくら近接戦闘が得意なミクリでも割り込めない。
そして、今日のトルティナ殿はそういうことをしてくる気がする。
扉をノックする。少し乱暴になってしまった。
「はーい」
返事が聞こえた。アネッタ殿の声だ。声音に異常はない。いつも通りの落ち着く音。
少しして、扉が開く。
「あらロアさん。どうしました、そんな格好で?」
良かった。彼女の様子は通常だ。どうやら何事もなかったらしい。
「失礼、アネッタ殿……格好?」
改めて自分の姿を確認する。着替えず来たからフォーマルな服装をしているな。
……いやまて。何事も無かったなら、私はなぜこんな服でここを訪ねたのだ?
「おや、軍の集まりからお帰りデスか? なにか重要な話でもあったデス?」
奥から聞き慣れた声がした。見れば、ミクリがテーブルでお茶を飲んでいる。
一応警戒を続けているのか、それとも単にしゃべってるだけか。どうやらまだいたようだ。……ただ、機転を利かしてくれたようだが、軍の集会にこんな格好では行かない。会議だろうがパーティだろうが基本軍服だ。
まあアネッタ殿には分からないかもしれないが。
「いいや、想定通り……ではなかったが、予定通りの結果にはなった。こちらは変わりなかったか?」
「もう帰っちゃったデスけど、トルティナさんと楽しくお茶した以外にはなんにもなかったデスよ」
本当にただ話していただけなのか……杞憂で済んだならいいが。
「ああ、すごく良い服を着ていますから、お見合いでも行ってきたのかと思いました」
「ぐふっ!」
思わず咽せる。
「今日は軍の方で会議かなにかあったんですね。それで、ミクリさんにご用ですか?」
「そうみたいデスね。では、今日はこの辺でおいとまするデス」
私のフォーマルな服装が珍しいらしいアネッタ殿が納得したように頷き、ミクリが残っていたお茶を飲み干して立ち上がる。
「談笑中にすまない、アネッタ殿。ミクリをお借りする」
「いえいえ。お仕事の話をするのですよね? 気にしないで下さい」
スキル剥奪屋の少女が笑顔で首を横に振る。申し訳ないが仕事の話は一個もない。
「……ちなみに、トルティナ殿とどんな話を?」
せっかくミクリが機転を利かしてくれたのだ。何事もなかった以上、ここはこのまま去ってもいい。
ただもう少し彼女と話したかった。
「はぁ……それが、今日はなんというか……中央区の美味しいお菓子屋さんのお話とか、でしたよね?」
「そうデスね。新しいお友達に連れて行ってもらってとても感動したって言ってました」
「あとは楽器を始めたようです。難しいけれど楽しいと」
「フルートみたいデスね。そのお友達に影響されたらしいデス。あたしたちもなにか始めてセッションしないかと誘われたので、経費でティンパニーとヴィオラを買って下さい」
「お前、それが軍の経費で落ちると思ってるのか?」
本当になんの話なんだ。
アネッタ殿も困惑している。この間はかなりの精神的な負担を強いられたのだろうが、今回はどうでもいい雑談に終始したらしい。であればこんな表情にもなるだろう。
というかカレン嬢と友人になって楽しそうだな、トルティナ殿は。
「ああそれと、ロアさんの話もしていましたよ」
血が冷たくなった。背筋が凍る、という表現はこれか。
まさか、やはりトルティナ殿は私が王子であることを……。
「ここに来る前に会ってお話したんですよね? とても良い方だと褒めていましたよ」
「あ、ああ。たしかに少し話したが……それだけか?」
「? ええ、それだけですけれど」
本当になんなんだ。少なくとも褒められることはしていないが。
「……殿下。ちょっといいデスか?」
近くまでやって来たミクリに腕を引っ張られる。アネッタ殿には聞こえないほどの小声だ。配慮しているということは、どうやら私の身分は明かされてないようだが……。
少しだけ離れる。玄関から出て、段差を降り庭に立つ。
そうして。
「いいデスか。落ち着いて聞いて下さい」
ミクリは真剣そのものの顔で……そうに見えるように装った顔で、その実は笑い出したいのを堪えながら。
「トルティナさんはどうやら、アネッタさんが殿下のことを好きなのではないか、と勘違いしていたようデス。それで、いろいろと引っかけみたいなことを言ってたんデスが……アネッタさんが全然ピンときていないというか、まったく分かっていない感じを見て、今日は負けておいてあげるのです、とお帰りになられました」
……………………。
「ではアネッタ殿、お邪魔したな」
挨拶する。ミクリを連れてスキル剥奪屋を去る。踵を返す。
いつの間にか雨はあがっていて、空には晴れ間が見えて――とても綺麗な、大輪の虹が架かっていた。
最近、ノートパソコンアームの存在を知りました。画面を持ち上げることで仰向けで作業できるみたいで、すごい楽そうでいいんですよ。ゆったりと寝転がりながらノートパソコンで小説を書く環境を夢見るデスクトップ派のKAMEです。
というわけで五章はいかがでしたでしょうか。トルティナのその後、いずれ出したかったカレン、自分の心と向き合うロア、そして今までで一番スキルを使わない展開と、いろいろやれて楽しかったです。
それではまた、次章をお楽しみに。