いっそ敵であってほしかった
いったいなんだったんだ。
迎えの馬車に乗って揺られている間、私は一人しかいない座席で腕を組み、ずっとトルティナ殿との会話を思い出して考えていた。だが分からない。
理解できているのは、少なくとも敵というわけではなかったということだけ。殺意はもちろんなかったし、害意も感じることはなかった。トルティナ殿は何一つ悪意を持っていなかったようにすら感じた。
だから分からない。アレにいったいなんの意味があったのか。彼女はなにをもって呪いをかけると言ったのか。
いっそ敵であってほしかった。
暴力で解決できる問題は簡単だ。どうにでもなる。
そうでない相手はダメだ。私には向いていない。
「殿下、到着いたしました」
「……ご苦労」
馬車を降りる。行き先は聞いていなかったが、ここはどこだろうか。
けっこうな距離だったはずだから西区ではない。とはいえ区を跨ぐほどではないから東区ではない。麦畑が見えるから中央区にしては長閑すぎる。そして南区なら南部戦線と復興支援で訪れていたからだいたい分かる。
おそらく北区。農業区にぽつんとある妙に大きな高級レストラン。……ああ、そういえば商売に色気を出したどこぞの貴族が景観だけで建てて、密談で使うのに丁度よいと富裕層に使われている店があるとか。今回はそういう場を選んだらしい。
まあいい。それよりあちらは大丈夫だろうか。
トルティナ殿はアネッタ殿のところへ行くと言っていた。楽しくお喋りするとのことだから、スキルを剥奪したいわけではなく単に話したいだけか。
彼女が以前、剥奪屋に来たときのことを思い出す。翌日にアネッタ殿を訪れたらかなり調子悪そうにしていた。あれは精神的な疲弊で間違いない。あれをもう一度やる気だろうか。
一応ミクリを向かわせたが、不安は残る。
「お久しぶりです、ロア・エルドブリンクス殿下。以前は大変な失礼をしてしまいましたのに、こうして再びお会いする機会をいただけて恐悦至極に存じます」
「ええ、久しぶりですねカレン・ホムルス殿。あれは私のせいなのですから、そうかしこまらないでくれませんか。あのときは私のスキル制御が未熟なせいで、大変申し訳ないことをしました」
いいや、まさかだがトルティナ殿は、アネッタ殿に私が王子であると知らせるつもりだろうか。
それはミクリでも止められはしないだろう。
「その……以前よりも少し、印象が変わりましたか?」
「は?」
今なにを言われたのだろうか。……印象?
ああ、顔か。
「それは威圧スキルを制御できるようになったからでしょう。スキルを完全に抑え込めるようになったおかげで、多少表情も和らいだようです」
また、嘘。
私はなぜこんなにも嘘を吐く? 制御などできていないのに。これは私の手柄などではないのに。平然と。
いつの間にか私はテーブルに座っていた。
おそらくこのレストランで一番景観のいい部屋なのだろう。上階の、曇り一つないガラスの大窓から外が一望できる席。……だが窓の外はやはり雨模様で、ガラスについた雨粒が素晴らしいだろう景色の邪魔をしている。
ガラスの外がぼやけている。頭の中がぼやけている。
「そ、そうですよね! 今のロア様からはまったく威圧を感じません。あのときのことが嘘みたいに。わたくし、前回の失敗を踏まえて心を強くするスキルを習得してきたのですが、それも必要なんてなかったのではと思うくらいに!」
ああ、予想通りだったな。スキル剥奪屋で買い付けたのだろう。提供者はカレン嬢の従者に違いない。
ホムルス家の威信に関わるから言うはずがないが、彼女のスキル習得もアネッタ殿の手柄だ。
――彼女はきっと、ここで名を出されないことなんか気にしないだろう。
最初に会ったときから、あの善性に憧れていた。
悪用しようと思えばいくらでもできるそのスキルを、他者のためだけに使う。そんな彼女のような存在に、自分もなりたいと望んだのを覚えている。
食事が運ばれてくる。テーブルマナーは覚えている。前菜を口に運ぶ。
味に異常はない。毒はなさそうだ。――食事を口にするときは、真っ先にそれが頭を過ぎるのが常だった。
だが、そういえば……アネッタ殿の出してくれた料理やお茶で、そんなことを考えたことはなかった。
「ロア殿下は今は市井に降りて生活して、威圧スキルの制御に専心しているとお聞きしました。こんな短期間で完全な制御を身につけるだなんて、どんな訓練をなさっているのですか?」
「特別なことはしていません。ただ、一般の方々を恐がらせるわけにはいきませんから、必死に抑え込んでいるだけです」
なんて白々しい嘘だ。まるで自分が自分でないみたいで気持ち悪い。
まるで心の仮面が勝手にしゃべっているよう。本当の私はこんな、いかにも王子様然とした人間ではないのに。
本当の私はもっと……もっと――
「そうなのですね。でもそれだけ完全に抑え込めているのでしたら、もう市井の生活など不要でしょう。いつごろ王宮にお戻りになられるのですか?」
――もっとずる賢くて、卑怯で、最低な人間なのに。
「そうですね。威圧スキルの制御を気にする必要は、もうありません」
ようやく、分かった気がした。私の矛盾。トルティナ殿の呪いの意味。
私はずっと、私自身に嘘を吐いていた。
「ですが――」
「ああ、よかった!」
パアッと、カレン嬢が笑う。本当に嬉しそうで、眩いほどで、今日初めて彼女の顔を見た気がした。
深窓の令嬢として育てられた、あどけなさの残る女性。私が精神病棟へ送ってしまった被害者。
カレン・ホムルスは、やっと胸のつかえがとれたとばかりに安堵の息を漏らす。
「わたくし、ずっと気にしていたのです。とても申し訳なく思っていたのです。――だってロア殿下が市井に降りたのは、そうしてまで威圧スキルを制御しようと決心なさったのは、わたくしがあのとき気絶してしまったせいなのでしょう?」