遅れる馬車
馬車が迎えに来る時間になって、玄関から外に出た。まだ到着していないのは気配察知で分かっていたが、予定通りに動かないというのはどうにも気持ちが悪い。
どういう理由で馬車が遅れているのかは分からないが、まあよくあることだ。なにかにぶつかったとか車輪が外れたとかの大きな事故でなくとも、馬の機嫌が悪かっただけで遅れてしまうのが馬車だ。
今日は雨だから、それだけでも御者は普段より速度を落とすだろう。
曇天を見上げる。雨はそこまで強くないが雲は厚そうだ。この調子なら止まないだろう。
時間通り来ていないだけで文句を言うつもりは毛頭無い。なんならこのまま来なくてもいい。馬車が到着しなかったのであれば、行かない言い訳にもなるというものだ。
最初から乗り気ではない。以前の見合いのときよりもずっと。
戦争はもう終わり、私の役目は終わった。元帥の思惑に乗って無用な混乱を招くようなまねはしない。
「おはようございます、ロアさん」
声をかけられる。そこにいることは気配察知のスキルで気づいていた。彼女がスキル剥奪屋に入らずに、なにかを待つように佇んでいることも知っていた。
「とてもとても良いお天気ですね。これからお出かけなのですか?」
黒いワンピースドレスに身を包み、黒い傘をさした少女。トルティナは道の角から姿を現す。
まるで待ち焦がれた想い人に会ったかのような。そんな微笑みで。
「おはよう。そして久しぶりだなトルティナ殿。たしかに雨も良いな」
挨拶を返す。最近は雨が多くてあまり良い天気だとは言えないが、彼女にとってはいいのかもしれない。
たしか今まで読んだ小説にも、お気に入りの傘が使えるからと雨を喜ぶ女性がいた。
「本日のトルティナは、あなたに呪いをかけに参じました」
ふむ。
なるほど、君は敵か――
「ロア様はなぜ、アネッタさんに王子であることを隠しているのです?」
警戒に集中しかけた思考が引き戻される。
先ほどまでトルティナ殿は私をロアさんと呼んでいた。けれど今は明確にロア様と呼び方を変えてきた。それに少しばかり驚く。
そうか、正体はバレているか。カレン殿の友人なのだしその縁で知ったのだろう。それは問題ない。
しかし――なぜ、とは。
……なぜ?
王家や軍への建前は、威圧スキル制御のための訓練。
アネッタ殿への建前は、街の治安維持のための潜伏任務。
真実は、スキル剥奪を所持するアネッタ殿の護衛。
嘘に嘘を重ねていたが、なぜ私は自分が王子であると言っていない?
「言う必要がないだけだ。王族が隣に住んでいるなんて、かしこまらせてしまうだろう」
「ああやっぱり、言っていないのですね?」
ブラフをかけられた……のだろうか。
どうやらトルティナ殿は、アネッタ殿が私の正体に気づいていない、という確信を持っていなかったらしい。
いやまあ、そんなことはいいが。知られたところで大したことではないというか、なんの問題もないことだ。
両手で傘を持ったトルティナ殿は、私の庭の手前、道の端で足を止めた。私は雨よけのために、玄関の扉の前、屋根の下にいる。私たちの間には一般民家の庭の分だけ、距離があった。
つまり私がいつでも彼女を拘束できる距離である。
……ただ、彼女はスキルを使う様子はない。なにか武器を持っている様子もない。別の家からマルクとミクリの視線も感じるが、二人もなんの動きも見せないのだから、その背になにかを隠し持っているということもなさそうだ。これで動くわけにはいかない。
「まず確認しておこう。私がロア・エルドブリンクスであることは気づいたのだな、トルティナ殿は」
「はい。お名前がそのままなのですから、簡単に調べられました。終戦時の新聞や雑誌を図書館で読ませていただきましたがお写真も出回っていますよね?」
「まあ……そうだな」
というか、最初は自分でこの街に住むなんて考えていなかったから普通にロアと名乗ったのだよな。
「こんな近くにいるのにここまで気づかないなんて、逆にアネッタさんが鈍すぎなのです。……まあ、すぐ隣に本物の王子様が引っ越して来ただなんて、普通は考えもしないかもなのですが」
「彼女が鈍いというのは、どうだろうかな。私が新聞や雑誌にもてはやされた南部戦線の終結は一年前だ。記憶が薄れるには十分な時間だろう」
それに、威圧スキルを剥奪してもらったおかげで私の人相は変化している。当時の写真とはかなり印象が違うはずだ。よほど注意して見なければ別人だと思うだろう。
実際、ピペルパン通りで私の正体に気づいた者は少ない。イーロ博士と、王族への信望厚い歳を召した住人たちが勘づいていそうなくらい。
「でも、アネッタさんもそろそろ気づくと思うのです」
……そうかもしれないな。
実際、気づかれておかしくはない。以前は姉が直接来たりしていたし、長兄に預けたシシもそろそろ緑の手のスキル所持者としてお披露目があるはずだ。
ほんの少し、調べようとすればすぐに辿り着く。
「アネッタさんはとても礼儀正しい方ですから、きっと膝をついて、ロア・エルドブリンクス王子様、と呼ぶのでしょうね」
彼女はなにを言っているのか。
意味が分からない。目的が分からない。そうなったという想定にいったいなにがあるのか。
なにも言えないでいると、視界の端、通りの向こうから馬車が近づいて来るのが見えた。
「あら、もうお迎えが来てしまったのですか。そういえば本日はカレンさんとお会いする日でしたね。どうぞ楽しんで来て下さい」
ニコリと微笑んで、トルティナ殿は一礼する。
「それではロア様、ごきげんよう。今日のトルティナは、アネッタさんと楽しくお喋りして過ごすつもりなのです」