未練、あるいは呪い
未練があるのです。
カレン・ホムルス。そう、なんの嘘もなくカレンさんは自己紹介しました。正々堂々と。
貴族であることは知り合って間もなく分かりましたし、公爵家なんて貴族名鑑をめくればすぐに出てくる大貴族ですから調べるのも簡単でした。
ああこの人は本当は、普通なら話すこともできないような身分なんだなって、入院していたころから分かっていたのです。
嘘を吐きました。
カレンさんは詳しいことを教えてくれない、とアネッタさんに言いました。あれは嘘なのです。
本当は分かっていたのです。全て、分かっていました。
カレンさんがお見合いで失敗したことも、そのお相手がロアさんであることも、その経緯も分かっていたのです。
――わたくしはロア様という御方とお見合いしたのですが、お顔が恐すぎて気絶してしまったのです。
それがカレンさんのしてくれたお話です。まだ彼女の塞ぎ込んでいるときに聞いたそれは自嘲気味で、口元は微笑んでいるのに目は泣きそうでした。下を向いていたからそのお名前に驚いてしまったこちらの顔は見られていないでしょう。
……でもそのお名前よりも、それを聞いてこれだけしか心が動かないのか、という驚きの方が勝りました。
きっと諦めていたのだと思うのです。あんな最悪をしてしまって、あんな失態を見せて、こんな窓に格子のはまったような病院にいるのに、まだロアさんへの恋心を持ち続けられなかったのでしょう。
いいえ。――いいえ。それは嘘。悔しいからそういうことにしたいだけ。
諦めた理由は、きっと別。
ロアさんが王子様であることも、カレンさんのことを調べたときに知りました。
彼が威圧のスキルで英雄になったことも知りました。
おそらくその威圧スキルでカレンさんが倒れてしまったことは、容易に想像できました。
でも知っているのです。ロアさんはそんな人を恐がらせて気絶させてしまうようなスキルなんて、もう持っていないのだって。
だって以前にお会いしたときは、とてもお優しい紳士だったのですから。初対面で道案内を買って出てくれたあの方に、恐さだなんて全然感じなかったのです。
だからきっと、彼の威圧スキルは剥奪されている。あのアネッタさんが威圧を除去したのだろうと、それくらいの推理はできるのです。
全部、知らないフリをしました。
ああ……ああ。
未練があるのです。
あるいは、呪いがあるのです。
あの、スキルを暴走させてしまった日。ロアさんとアネッタさんがそれを止めてくれたとき、思ってしまったのです。
お二人は物語に出てくるヒーローとヒロインのようで。強く逞しい勇者様と優しくて気高い聖女さまのようで。とてもとても輝いて見えて。
どうしてトルティナはあちら側にいないのだろう、と。自分のせいで大変なことになっているのに、図々しくも羨みました。
惨めでした。自分は助けられる側でした。でも囚われたお姫さまとかではなくて、自業自得で事故を起こして迷惑をかけてしまっただけで、しかもそれを悔いてさらにお手を煩わせてしまうような……とても惨めな側でした。
あの二人にとってトルティナはそんな、どうしようもない人間でした。そんな人間のまま、汚名を返上することもできずお別れしました。そう思ったら涙が流れました。
精神病棟に入院している間は、あの日のことを何度も何度も想い出しました。何度も何度も何度も何度も何度も想い出しました。今だって夢に見ます。
それは本当に嫌でした。いっそ全てを無かったことにしたいと考えました。
でも因果律操作のスキルはもうありません。あのスキルを返してもらえる資格はありません。
――だからせめて、塗り潰したいのです。絵の具を何度も何度も厚塗りした絵画のように、失敗を覆い隠したいのです。
二人に未練があるのです。あるいは、呪いがあるのです。
あれで終わりたくないのです。どうにか、あの二人にとってもっと違うなにかになりたいのです。
ロアさんを傷付けようとしたのに、勝手に失敗して勝手に逃げようとしたのに、ただただ許されたくなんてないのです。なんにもできず助けられたあげく、哀れみを向けられたくなんてないのです。
向けてくれるのなら、憎悪でも良いのです。
カレンさんを利用しました。ロアさんが威圧スキルを剥奪していることを伏せて、一緒にお店に行きました。
後日再びアネッタさんを訪ねて、言葉による呪いをかけました。
そして今、カレンさんとロアさんがお会いする今日に。またトルティナは王都西区の、あの通りの端を訪ねるのです。
「おはようございます、ロアさん。とてもとても良いお天気ですね。これからお出かけなのですか?」
シトシトと続く雨降りの中、傘を差しながら、白々しい挨拶をする。
胸に手を当てて、指先にレースの手触りを感じて、精一杯に微笑んで。
一礼を。心からの礼を送る。
「本日のトルティナは、あなたに呪いをかけに参じました」