車輪
車輪が石でも踏んだのか、馬車がガタンと揺れた。
視線を向ける。目の前の男は柔らかく笑んでいた。
「殿下の影響力はもはや無視できるものではありません。威圧がなくなり社交界に顔を出せない理由がなくなった今、あなたの存在は大きな影響を及ぼすようになるでしょう。このままではこの国に要らぬ混乱を起こしかねません」
「なるほど。戦うしか能のない私が軍部を離れれば、私を支持しようなどという酔狂者はいなくなるな」
慮外の提案だった。
それは自分の中に全くなかった選択だ。軍部に入ったのは社交界を避けるためでもあったが、王族の務め、民を護るための盾になるためでもある。しかし自分の存在が新たな火種になるのであれば、このままでいるべきではない。
邪魔なら去るべきだ。
「作戦参謀グレスリー・ドロゥマン。どんなに冷酷な策も眉一つ動かさず実行する絶対零度の男、鉄面皮のドロゥマン。それが、お前の二つ名だ」
目の前の片眼鏡の男へ、懐から抜いた銃を突きつける。
「高ランク変装スキル持ちなのだろうが、演技の方は下手だな。アレが微笑みなど浮かべるものか。……どうせ長兄殿の支持者の先走りか、次兄殿の放った手先というところだろう。正直に言うなら命は保証してやるぞ」
「おや。気が緩みましたな」
悪びれもせず、その男は肩をすくめた。この状況でこの反応はなかなかの人物だな。死ぬくらいは覚悟してきているのかもしれない。
まったく面倒だ。まさか自爆とかしてくるのだろうか。威圧がなくなったらもう殺せるとか思われてるのだろうか。それはショックなのだが。
「しかし、読みの方はまだまだです。すでに答えに辿り着く材料は揃っていると思うのですが」
「なに?」
「この身は正真正銘、あなたの作戦参謀グレスリー・ドロゥマンで間違いありませんよ、ロア・エルドブリンクス殿下」
片眼鏡の男は握っていた左手を差し出し、開いてみせる。
輝石が、あった。
「冷血。あらゆる精神干渉を受けなくなる代わりに、感情の起伏がなくなるスキルです」
嘘みたいにいい笑顔してるなコイツ。
「いやぁ、いいものですな、日常に感動があるというのは。このスキルなくして威圧のあるあなたと相対するのは、なかなか肝が冷える経験でしたが」
「……あの店はお前の紹介だったか」
あの剥奪屋は人格や体格に影響するスキルは珍しいと言っていたが、この調子だとかなり多いな。軍部にうようよ居そうだ。
「それで? お前は私を王にしたがってると思っていたが」
「何人殺せば王位をご用意させていただけるんでしょうなぁ。ええまったく、スキルなきこの身には恐ろしくて恐ろしくて」
「血に熱が戻って逆に冷静になっているな。お前もうそのままでいろ」
額に手を当てて、はぁー、と深いため息を吐く。肩の力が抜けていく気分だ。
つまり先ほどの軍部を離れろという提案は、我が作戦参謀殿の大真面目か。
それほど、今の私の立場は危ういか。
「グレスリー」
「はい。何でしょう殿下」
手の中の輝石を弄る。自分の身から摘出された、蒼の輝石。それを眺める。
「あの剥奪屋に言われたが……私は優しい顔をしているそうだ」
「はい……?」
意外そうな声を出すな。お前もずいぶん雰囲気が変わったと言っていただろう。
「私が威圧スキルを発現したのは軍部に入ってすぐだ。お前の冷血が発現したのはいつだ?」
「士官学校時代ですな」
お互い、人格どころか人生に影響を与えているスキルだ。それがなくなった今、自分には解放されたような清々しさとは別に奇妙な喪失感がある。おそらくグレスリーもそうだろう。
良い意味でも悪い意味でも、自分の中で大きな部分を占めていたのだと思う。
「お互い別の生き方を選んでいたら、今頃はどんな人生だったのだろうな?」
「……さて。この身は作戦参謀なれば、過去の選択を振り返るより、未来に思考を巡らす方が得意でして」
そうか。そうだな。思い描くべきはイフではなく、明日の自分。
ならば答えは決まっていた。
「私は軍部を去ろう」
「承知いたしました。後のことはお任せ下さい」
すでにいろいろと手を回しているのだろう。本当に任せてしまえば良さそうだ。
なら、もういいな。
「それと、先ほど話していた剥奪屋の護衛は手配しなくていい」
「おや? しかしそれは、無用な混乱を……」
手の内にある輝石へ意識を集中する。ただ、戻れと念じる。
それだけで良かったはずだ。
「威圧スキルの制御、封印は未だ目途がたたず、難航している」
スキルの輝石が手の中でわずかに光を強める。
「南方との戦争が終結した今、軍人としての役目は果たしたと私は判断し、これからは平和な世に向けて威圧スキルの制御に専念する。ただし現在の環境では難しいと考える。そのため、今後は軍部を離れ宮殿からも距離を置くことにしようと思う」
手のひらに落ちた粉雪が溶けるように輝石は形を失い、嘘だったかのように、あっさりと己の内に戻った。
これで元通りだ。やはり規格外のスキルだな、あの剥奪屋は。
「一種の荒療治だな。市井に身を置き、一般人に混じって常に制御し続けなければならない状況へ自らを追い込む。父や兄姉たちには、普通に生活できるようになるまでは戻るつもりはない……とでも言っておけばいい。どうだ、グレスリー?」
「御心のままに、殿下」