塩漬け味の干し肉
少し、気分が楽になった。
お昼にロアさんと話したからだろう。彼が帰ったころには、鉛のようだった心は少しマシになっていた。
だいぶん話し込んでしまったけれど迷惑ではなかっただろうか。あれだけ長く居てもらったのなら、やはりお茶くらいは出した方が良かったのではないか。……そんないつもの後悔も、昨日や今朝のよりは全然マシだと思えば、不思議と吐くこともない。
もしかしたらちょっと強くなれたのかもしれない、なんて思ったりして。
「ああ……お腹減ったなぁ」
ふいにそんな独り言が漏れて、わたしは自分の空腹を自覚する。当然だ。吐いて胃をカラッポにしたあと、丸一日なんにも食べていないのだから。
自覚したら急に空腹のことしか考えられなくなった。そうだ、調子が出ないのはお腹が空いているからかもしれないと、椅子から立ち上がる。
背もたれに体重を預けすぎて椅子が倒れかけて、危うく転びそうになった。テーブルに腕を引っかけるようにしてなんとか耐える。
ヒァ、ヒャァ、と擦れた息をして、首筋を冷や汗が流れて、ドキドキとする心音を聞いて、自分の状態をひどさを自覚する。――力が全然入らない。今のは、そのまま顔面から倒れたかと思った。
テーブルと不安定な椅子に寄りかかって、ずり落ちるように床へ座った。働いてくれない頭と震える腕で椅子を定位置に戻して、それからゆっくりと壁まで這う。
手をついて、立ち上がった。なんとか立てた。フラつく足でキッチンへ向かう。身体に力が入らないのは空腹からか精神的なものからか。ほんの少しの距離を慎重に進む。
とにかくなにかお腹に入れた方がいい。でないと家の中で力尽きて倒れるなんていう、特大の恥をかきかねない。
苦労してキッチンへ行って、残っている食材を物色して……とても困った。とてもとても困った。
あの塩漬け味の干し肉しかなかった。
そういえば買い出しに出たのは、あの小雨の日が最後だったのではないか。そろそろ食べ物を仕入れに行かなければならないのに、なんなら底をついていたのに、すっかり忘れてしまっていた。
どうしよう。スープに入れれば塩分が染み出して丁度いい味になるのだけれど、ここまで空腹だとそんな手間と時間もつらく感じる。……とはいえあんまり胃腸が丈夫ではないから、今のこの状態でこんなものを食べたらどうなることか。
あんまり働かない頭で真剣に考えて、ちょっとだけ囓った。――ダメだ、すごく塩辛い。思わず涙目になって俯いてしまうくらい。さすがのロアさんも、ちゃんとスープにするだけはある。
でも、がまんすれば食べられないことはないかも。
そのまま食べると身体に悪いですよ、ってわたしがロアさんを心配して忠告しようとしたものなのに、そんなことをしていいのだろうか。ダメに決まってる。なにか一線を越えてる気がする。
自分の健康の心配よりも食事事情であの人の下になりたくないという、すごく失礼な葛藤に頭を抱えたくなる。
お隣さん相手にそんなことを考えていいわけないし、そんなことを考えている場合でもないだろうに。
……これは、非常食。そして今は非常事態だから。
ちょっと囓る。お水で流し込む。たくさん飲む。少し休んで、また囓って、お水を飲む。
それを何回かくりかえして、やっと一欠片を食べきった。
「……ふぅ」
息を吐く。塩辛さを誤魔化すために飲んだ水でお腹が苦しいけれど、少しだけ元気が戻ってきたかもしれない。少し頭に血液が回るようになった気がして、でもこれ以上は絶対ダメだって分かって、だからキッチンから出た。元の場所へ戻る。
その際、窓の外が視界に入った。どうやら雨が上がったらしい。雲の隙間から夕陽の赤い光がさしていて、もう夕方なんだと分かる。
まだお店を閉める時間まで少しあるけれど、元々お客さんの少ないお店だ。さすがに今日は誰も来ないだろう。息を吐きながら椅子に座る。
コン、コン、とノックがあった。
嘘だぁ……と身体が重くなる。動けなくなりそうになる。居留守でも使おうかと思ってしまう。
本当にそんなことができる性分なら、どれほど良かっただろう。
「はーい」
営業用の仮面をまた被る。声はちゃんと出た。大丈夫、わたしは回復している。ほんの少しとはいえ食べたから力も入れられる。背筋はしゃんと伸ばせるし表情も保てる。
立ち上がる。フラつかずに歩けた。大丈夫。
一度目の音と二度目の音に間隔があった。落ち着いた人だ。
トルティナとは違う。カレンさんのイメージとも違う。二人ならきっと、もっと弱々しいだろう。
この人は音がしっかりと固い感じで、そしてよく響く。そんなコツがあるのか分からないけれど、ノックの仕方を知っているような感じ。
玄関の扉の前で深呼吸してから、ドアノブを回す。
「いらっしゃいま……せ?」
知り合いではなかった。けれどどこかで見たことがある気がして、語尾が少し上がってしまう。
そこにいたのは黒に近い灰色の髪の女性だった。
歳は二十代のどこでもおかしくなくて、背が高くスラッとしている。整った中性的な顔立ちに、シルバーフレームの眼鏡がよく似合っていた。
わたしはこの人を知っている。けれど思い出せない。やっぱりいつもより頭が働いてくれない。いったい誰だろう。
「失礼します。ホムルス家の執事をさせていただいているルイスと申します」
ホムルス家。それはたしか、カレンさんの名字だったはず。――それで、思い至った。
この人、たしかあの自動車を運転してた人だ。トルティナとカレンさんと車が印象的すぎて分からなかった。
「本日はカレン様の件でご相談があり、訪問させていただきました」