耐えた後に
『殿下、トルティナさんが剥奪屋から出てきたデスよ。いかがしますか?』
ミクリから報告がある。書類に目を通していた私は無線を取った。
「そうか。なにもしなくていい。道に迷わないかだけ心配だから、姿が見えなくなるまで見送ってやれ」
『いや姿が見えなくなるまでは一本道デスけどね。方向音痴なんデスっけ、あのお人形さんみたいな美少女?』
「そうみたいだな。最初に会ったときも道に迷っていた。真性の方向音痴を侮らない方がいいぞ。まっすぐな道でもなぜか横に逸れるらしいからな」
まだ読み途中で止まっている小説の登場人物を思い返す。右と左を間違えたり、近道しようとして路地に入ったり、山道をまっすぐ行けと言われて道なりではなく直進し崖から落ちたりする。……まあ最後のはさすがに現実にはあり得ないと思うが……思いたいが、軍にいたときはたまに、もっととんでもないことをやらかす者の話も聞いたものだから笑い飛ばせない。
手にしていた書類を置く。眼精疲労を自覚して、眉の辺りを揉んだ。
こういう仕事はあまり得意ではない。自分でもやらなくはないが、やはり私は身体を動かす方が性に合っている。
『うーん……進言いいデスか』
「なんだ?」
『殿下はあんまり警戒していないみたいデスけど、あの子、呪術を使うんデスよね? アネッタさんに危害を加える可能性は?』
極めて真っ当な懸念だな。少し見直すほどだ。
「あり得るな。だが、彼女が使える呪いは大したものではないと把握している」
今まで読んでいたのはトルティナに関する資料だった。グレスリーを介していないそれは量があるものの、細かく雑多なだけで整理されていないもので、把握するのに時間がかかる。
中央の大病院でどう過ごしていたのか、どのようにしてカレン・ホルムスと知り合ったのかを一応聴取させていたのだが、そこに彼女の生家についての情報もあった。
かつては王城に務めたこともある、しかし今は時代に取り残された一子相伝の呪術士の家系の、末子。それがトルティナという少女である。
遺伝による素質によって呪術らしいスキルはいくつか発現している。しかしまともに術を学んだことはなく、家系の秘奥などあることすら知らない。
つまり彼女は呪術士ではなく、呪いっぽいスキルが使えるだけの少女らしい。
『はぁ。アネッタさんは殿下みたいな人間兵器じゃなくって普通の人なんデスから、ちょっとの呪いでもしんどいかもしれませんデスよ』
む……人間兵器というのは心外だが、それはたしかに。
気配察知のスキルですでに、少なくともアネッタ殿が無事なのは確認している。とはいえ詳しい状態は分からない。
建前こそ私の威圧を制御できるようにするためということになっているが、実際に我々がここにいるのは彼女の護衛である。なら、相手が誰であれ多少の警戒心は持つべきだ。
『もしかしてデスけど、殿下。あのお嬢さんに負い目感じてるデスか?』
「…………」
指摘されて、すぐには返せなかった。
三秒ほど考えてから、無線機に話しかける。
「それは、あるかもな」
『そうデスか。トルティナさんと会わないのもそれが理由で? 今日なんか一人で来たんだから、挨拶くらいできたデスよね?』
「快復し退院したとはいえ、彼女の精神状態を思えば会わない方が無難だろう」
これは逃げなのだろう。だが間違ってはいないはずだった。
『まあいいデスけど、明日あたり様子見に行った方がいいんじゃないデスか?』
「お前が行ってもいいんだぞ?」
『やめておくデス。なんか嫌な予感しかしないんで』
朝になって、窓の外を見て、天気が雨なのを確認する。
前にトルティナとカレンさんが来たときと違い、今日の雨は強めだ。雨が好きなわたしでも外に出る気がなくなるくらいの、強い雨。
まあもっとも、今日はまだ昨日の件を引きずっているから、天気がどうだろうと外に出る気にはならなかっただろうけれど。
ソファに座って、ぼーっと過ごす。朝食も食べていないし、いつもやる掃除も道具を手にすることすらできない。
そのままお昼になって、昼食も食べずにただ座ったまま、無為に時間が過ぎていって。
でも、これでも、昨日よりはまだ動けている。ちゃんとソファに座っているし、水くらいは喉を通るし。――なんて、そんなことを考えて。
コンコン、とノックの音に、ビクリと身を震わせた。
心の仮面を被る。スムーズにできた。ソファから立ち上がる。これも問題ない。息を吸う。浅くしかできなかった。
声を出す。
「はーい」
少し裏返ってしまったけれど、ちゃんと声が出た。
玄関まで歩く。大丈夫、フラついたりはしない。服が変になっていないか手で触れて確認しながら、短い距離をゆっくりと進む。
いつものように、どんな人が来たのだろう、なんて考えなかった。そんなことに頭を回す余裕はなかった。そのまま玄関の扉を開く。
「どうも、アネッタ殿。……どうした? 酷い顔色だが――」
玄関の向こうに立っていた姿を見て、わたしは崩れ落ちそうになって……なんとか、堪えたのだ。