新車の音
恋愛について、わたしは疎い方なのだと思う。なにしろ恋人がいたことがないのだから、さすがに詳しいとは言えない。
なんなら好きな人はいないし、もちろん告白だってしたことがないくらい。というか人と話すことすら恐いのに恋とか耐えられるはずないのだから、もはや疎いなんて言葉ですらおこがましいのではないか。
でも、恋愛はいい。そう思う。見てるだけなら。
物語の恋模様にハラハラしながら、小説を読み進めるのは本当にいい。自分事だと思ったら絶対耐えられないけれど、他人事、それもフィクションならなんの問題もなく楽しめるものだ。盛り上がりどころなんて、これからどうなるのかとドキドキしてページを繰る手を止められなくなる。
――そう。特にドロドロした物語はとてもいい。不倫ものとかで刃物や毒物が出ると目が離せない。貴族間の政略結婚の絡んだ悲恋ものとかも最高だ。愛憎渦巻く展開はトイレも我慢して最後まで読み進めてしまう。
まあそんなわたしの好みをロアさんに勧めるわけにはいかないので、当たり障りのないものからチョイスする。
……ちょっとわたしのお気に入りの展開があるもの選んでもいいかな? ダメかな? 少しくらいいいよね後悔して吐きそうだけど。
そんな感じで選書して、ロアさんに本を渡して、案の定グルグルと苦悩し吐きながらなんとか眠って翌朝。
窓から差し込む光に目を覚ます。外はすっかり晴れていた。
気持ちの良い朝だ。後悔でなかなか眠れなかったから寝不足で、ちょっと頭がボーとするけれどいい朝だ。昨日雨だったし、今日は反動のように外の人通りが多くなるだろうから、今日は一日中家にいよう。
「ふぁ……」
あくびを噛み殺す。寝不足でもお店は開けなければならない。だって家にいるのになんで開いていないの、怠けてるの? なんてご近所さんに思われたら嫌だから。
顔を洗って、寝ぐせを直して、服を着替える。胃が弱ってるので、昨日買ったパンを少しだけ千切って食べた。
そうして、玄関の外の札を裏返しに行く。
ロアさんは、もう読んだだろうか。
初心者用に読みやすく、薄めのものを二冊ほど渡した。一冊くらいは読み終わっていてもおかしくないはずだ。
どんな感想を持ってくれるだろうか。ロアさんはちょっと変わっているところがあるから予想が付かない。
というか、あの人に恋愛ものの小説のオススメなんて難題すぎないか――
「おや?」
玄関から外に出て、プレートを手にしたところで、耳慣れない音を聞く。
聞いたことはあるけれど、久しぶり。低くてうるさくて規則正しいこのリズムは、自然には鳴らないもの。
プレートを持ったまま、音につられて道の先へ視線を向ける。
「自動車かぁ。珍しい」
最初はマルクさんかと思った。緊急時の移動用として自動車を持っていて、わたしも乗せてもらったことがある。
あくまで緊急時用だと言っていたけれど、ロアさん管理だからなにかあったら使用は躊躇わないだろう。……でもそれなら忙しかっただろうから、小説を読む暇はなかっただろうなって少し残念な気持ちになる。
――けれど、すぐにそれは違うと分かる。だって、ここから見えた自動車には屋根がなかった。前に乗せてもらったものは屋根があって、それに軍人さんの車らしくもっと頑丈そうだった。
「すごい、お金持ちさんだ」
自動車ってまだ実用化されて間もないから、すごく高い。普通の一般人では手が出せないくらいの価格がする。持ってるのは本当に一部のお金持ちだけ。
しかも、機械に疎いわたしでもあの種類には見覚えがあった。少し前、本屋に並んでいた雑誌の表紙で見たからだ。その雑誌は買ってないけれど、最新のものだってことは覚えている。
まさか実物を見ることができるとは。ちょっと幸運かも。
「ん?」
自動車が緩やかに速度を落としていた。こちらに近づくにつれてゆっくりになり、やがて停まってしまう。私の家の前で……スキル剥奪屋の店の前で。
屋根がない車だから、乗っている人の顔が見えた。女性が三人。運転席に一人と、後部座席に二人。
パタンと後ろの扉が開いて、黒髪の少女が降りてくる。
「おはようございます。お久しぶりなのです、アネッタさん」
黒のワンピースドレスを纏う人形のような見た目の彼女は、スカートの端を摘まんで優雅に一礼して。
「え……トルティナさん?」
わたしは見覚えのあるその少女の名を呼ぶ。
以前わたしのお客さんとしてやってきた彼女は、恋をしたロアさんに呪術を使おうとして失敗し酷いことになって、いろいろあって倒れて病院で療養していたはず。
快方に向かっているという話はロアさんから聞いていたけれど、退院したのか。……それは、良かった。
「その節はご迷惑をおかけしたのです。おかげさまで、もうトルティナは大丈夫です。ありがとうございました」
「い、いえ。迷惑だなんてそんな」
「今日はお客さんをご紹介しに来たのです。……さあカレンさん、あの人が剥奪屋さんなのです」
いきなり最新の自動車で現れたトルティナに驚いていると、彼女は同じく車の後部座席に乗っていたもう一人を呼ぶ。
なんだろう。挨拶のときから目を合わせてくれない。いや心当たりはあるのだけれど。すごく……あるのだけれど。
「あ……貴女がスキル剥奪屋の御方なのですね」
反対側の扉から降りてきたのは、シルバーブロンドの髪の女性だった。わたしより少しだけ歳上な気がするその人は、オドオドした様子で頭を下げる。
「カレン・ホルムスと申します。ほ、本日は、お願いがあって参りました……」