その町並みは時の流れを感じさせて
馬車の振動を感じながら、小説を読み進めていく。
速読は使わない。時間をかけて読むのがいい。
物語に入り込むように集中する、というのは不思議な感覚だ。
チェスのように盤上にのめり込む感覚とはまた別。駒を摘まむことはなく、操るのはページだけ。先の予想はしても思い通りに動かすことはできなくて、どんな展開へ進むのかをただ見守るしかない。
そう考えれば読書とは、願うことなのかもしれない。
「ああ、ここだ。――すみません。少し迷ってしまいましたが、到着しました」
御者台に乗る部下が小窓から謝ってくる。馬車の速度が緩まる。
ふむ。大して時間はかからないと思っていたが、予想より読めたのは道を間違えていたらしい。
本を閉じる。栞が欲しいところだが、今は持ち合わせがない。
さて、作戦中だったら叱らなければならないところだ。戦時では一分一秒を争うことはよくある。
だが今日はいいだろう。作戦ではなく完全に私用で、そもそもジャックをあの店に連れて行く名目で彼に御者を頼んだだけで、この身をここまで送ってくれたのはただの善意だ。
これで叱ったりなんかしたら、職権乱用で訴えられかねない。
「いえいえ、ありがとうございます。帰りは乗り合い馬車を使いますので、あなたは気をつけて戻って下さい」
礼を言って、停まった馬車を降りる。御者台の彼がものすごく微妙な表情をしていたが、見なかったことにした。
……そりゃあまあ、冷血があったころはそんな気遣いもできなかったのだが。しかしあんな顔をしなくてもいいではないか。戦時中は人の心など邪魔なだけなのだから、あれはあれで最適だったのだし。
「ふむ」
目印の小さな橋。その欄干に腰を預けて、片眼鏡を外した。布で拭いて、またかける。周囲を見回す。
大通りから外れた住宅街だ。小さめで装飾の凝った家が多い区域で、庭が狭く建物同士の間が狭い場所。
この辺りにまだ人が多かったころの名残。
住所はこの辺りのはず。だが正確には分からない。実際に来るのは初めてだ。
この件については完全に私用なため、下調べに人は動かせなかった。ほとんど噂頼りみたいなもの。
だからとりあえず、思ったより多いこの家々を一軒一軒訪ねて行くしかない。
「まあ、地道にやるのは慣れてますから」
橋の欄干から腰を離し、あくびをしながら歩き始める。
鉄面皮のドロゥマン。この身は軍の者たちからそんな二つ名をもらっているらしい。
つまりは特筆すべきが、面の皮の厚さや表情を変えないこと程度、という証左なのだろう。納得のあだ名である。事実、伝記に残されるような大軍師に比肩する奇策など思い浮かんだことはないし、そういう者たちが持つ大軍を動かすのに必要なカリスマもない。
ロア・エルドブリンクスという規格外がいたせいで注目を浴びはしたが、やったことはその規格外を頼って、一部隊をなんとか運用しただけ。この身の正確な評価は凡人、凡夫、凡才の類だろう。
そんな平凡のくせに靴をすり減らすのが嫌だなんて、そんな贅沢を言うつもりはない。むしろ久しぶりの身の丈だとすら思う。
「空き家が多いですね」
家は外観を見れば、人が住んでいるかどうかはだいたい分かる。雑草が伸び放題だったり屋根下に蜘蛛の巣が張っていたり、外の鉄柵がボロボロに錆びていたりする。ここはそういう家屋が目立つ。
住人が少ないとは思わない。中央ほどではないが人通りはあるし、活気もある街だと思う。むしろ王都の中でも人の多い区域ではないか。
ただ、それでも建物が多く感じるだけ。かつての中心街はやはり様々な情勢によって、人が少なくなっているようだ。
……まあ、この身がかつて住んでいた地域よりは全然マシだが。
「ですが、治安は良さそうです」
これだけ空き家があるなら、空き巣が入ったりよからぬ者が勝手に住み着いたりということもありそうなものだ。……けれど、どこも酷く荒れている様子は見られない。
おそらくそれは、住人の気風のおかげだ。
ここら辺はかつて王城のあった場所だからか、特に古い住人は王家への忠誠が厚い。そして道徳的に正しい生き方を重んじる傾向にある。そういう地域の特色が根底にあるから、多少人がいなくなったくらいで人々はブレないのだろう。
――なんて、そんな益体のない、真実なのかどうかも分からないことを適当に考えながら、十軒目の家をノックする。
「はーい」
それは記憶とは少し違ったのだけれど、懐かしくて、時の流れを感じさせる声で。
扉が開いて、大きな丸眼鏡の女性が顔を見せて。
意外と早く見付かってしまって、どうやって切り出すか考えていなかったことに気づいて、とりあえず一礼した。
「どうも。グレスリー・ドロゥマンと申します。こちらはステラさんのお宅で間違いないですね?」
こういうとき自分の性格が出てしまう。こうして直接相対しても、まだ頭のどこかで本当に本人か確定していない、だなんて思ってしまう。
疑っているのは目の前の彼女ではない。疑うのはいつも自分だ。自分で自分を信じられない。自分が下調べばかりしている理由がそれである。
もし人違いだったら、他人のそら似でしかなかったら、なんて予防線を張ってしまって――
「あら……あらあらあらまあまあ! ビックリ! あなたグレスリーなの? 久しぶりじゃない!」