チャンスの女神の
「それでは、今日はありがとうございました。グッドゲームでした」
初手から並べて感想戦をして、それも十分に終わって、ウルヴァス氏は立ち上がった。
立つと改めて大きいと感じる。巨人のようだ。……けれど、圧のようなものはない。彼の物腰の柔らかさがそうさせているのだろう。
「また来ますよ。次こそはその駒をいただきます」
「儂が生きているうちに持って行けよ。でないと遺産で揉めるぞ」
ヤガートお爺さんはそっけなく返して、また駒を拭く。もはや癖になっているのだろう。
遺産で揉める案件……いったいどれほどの駒なのか。
「ハハハハハ、ご冗談を。ヤガートお爺さんは百歳まで生きるでしょう」
「バカ言え。年寄りは簡単にぽっくりいくもんじゃぞ」
ヤガートお爺さんは眉をひそめるが、こればかりはあたしもウルヴァス氏に同意見。この人がそんな簡単に死ぬとは思えない。
まあでも、こうして話していると普通だ。
ちゃんとお爺さんと孫の会話。チェスという共通の趣味のある二人の会話。勝ったらお小遣いをやるぞみたいなニュアンスすらあった。
さっきまでバチバチにやってたのに、試合じゃないとこうも穏やかになるのか。
「ここは……良い場所ですね」
公園を見回して、まるで初めて気づいたかのようにウルヴァス氏がひとりごちる。
花壇に色とりどりの花が咲き、東屋の屋根がつくる日陰が心地よく、耳を澄ませば大通りの人々の声が聞こえてくる。
なんというか、ゆったりとした開放感があって居心地がいいのだ。暇なときはここで読書なんてするのも贅沢なのではないか。
「ここは儂が手入れしておるからな」
「え、そうなんデスか?」
思わず声が出てしまった。
「歳をとるとやることがなくてな、手慰みに土いじりしとる。ま、暇つぶしじゃな」
……公園は雑草を抜いたりゴミ拾いをしなければ荒れるだろう。花壇は誰かが花を植え肥料や水をやらなければならない。
誰の目にも止まらないその仕事をやっていたのは、ヤガートお爺さんだった。
ああ、そうか。だからこの場所を対局場に選んだのか。
自分が手入れしている公園に綺麗に花が咲いたから、孫に見せたかったのだろう。
「ヤガートお爺さんらしいですね。とても美しいと思います」
「本職でもなし、大したことはしとらんよ」
そうは言いつつも、ヤガートお爺さんはちょっと得意気だ。
「老後の趣味としてはまあまあじゃ。立って歩けるうちは管理しようと思うとる」
「それじゃ、しばらくはこの美しい光景が見られますね」
「せいぜい数年じゃろ」
広い肩をすくめるウルヴァス氏。
たった数年で終わるはずがないと呆れているような、願っているような。
「そろそろ行きます。ミクリお嬢さんも、今日はチェスの立ち会いなんてものを引き受けていただいて、ありがとうございました。信条が合わないところはあるようですが、それでもいい出会いでしたよ」
「こちらこそ。できれば、次はスキルを解放した本気の試合を見たいところデスが」
「ハハハ。それはできません。僕はザールーン教の信者なので」
これはさっき知ったのだけれど、二人が賭けていたのは駒だけだった。
あたしはてっきりウルヴァス氏が負けたらザールーン教を抜けるという勝負なのかと思っていたのだけれど、そういうことではないらしい。
ヤガートお爺さんは負けたら駒を渡すという約束で戦い、そして勝った。この試合はそれだけのものだった。
信仰は賭けるものではない。無理矢理変えさせても意味がない。それはそう。
だけど拍子抜けというか、なんだか納得がいかない。今までのはいったいなんだったのか、とすら思う。
「――ああ、そうだ」
踵を返したウルヴァス氏が立ち止まる。こちらを振り返る。
「そういえば、ここら辺に不要なスキルを取り除いてくれる店があるとか。……たしかスキル剥奪屋、とか? ヤガートお爺さん、ミクリお嬢さん、そういう店をご存じでしょうか?」
その問いかけに、あたしは表情を変えなかった。
「さあ? あたしは知らないデスね。そういうスキルがあるんデスか?」
「そんな特級のスキル持ちがこんな場所にいるなんて、なかなか信じられませんよね。ですがザールーン教の信徒として興味があります。もし本当にいらっしゃるならぜひお話を伺いたい」
彼は爽やかに、にこやかに話す。
「もしそんなスキルがあったとして、ザールーン教はそのスキルに頼るのデスか?」
それは事前に用意しておいた切り返し。彼らがチェスを対局している間に考えたもの。
なぜだろうか。ウルヴァス氏が来る前のヤガートお爺さんの言葉が妙に耳に残っていて、それが今また聞こえた気がした。――じゃが話は通じん。なにを言ったところで向こうの結論が変わることはない。
「ふむ……それもそうですね。近くまで来たのでついでと思いましたが、やはり確かめるのはやめておきます」
ウルヴァス氏は顎に手を当て、少しだけ考えて、微笑んで頷いた。一礼してから去って行く。
剥奪屋のある方向とは逆、乗合馬車の駐留所の方へ。
(マルク。もしかしたらアネッタさんの店に筋肉ダルマの大男が行くかもしれないデスから、来たら要警戒で。ロア殿下にも報告お願い)
(はあ? ……まあ、分かった。了解)
双子の兄へテレパシーで手短に通信しておく。
あのスキルはザールーン教の教義と完全に合致するようなものではない。剥奪してもすぐに新しいスキルをとってしまうのだから、全くスキルのない人間にするようなことはできない。
でも、それを説明しても無駄な気はした。
「ふん。まったく。本当に、わけの分からん奴じゃの」
ヤガートお爺さんは一つ一つ、丁寧に駒を拭いていく。その声にはどこか、失望が混じっている気がした。
さっきまでのやりとりは普通だった。けれど普通だったからこそ、去り際の彼の様子で確信した。
分かり合えない。言葉は届くようで届かない。ただ、どうにもならないだろうという無力感だけが残る。
いいや、生き方は人それぞれだ。ウルヴァス氏のそれはあたしやヤガートお爺さんの価値観にはそぐわない思想だけれど、それをどうにかしてやろうというのは傲慢な押しつけではないかとも考えてしまう。
はぁ、とため息を吐いた。そのまま深呼吸する。
あたしは去って行く孫の背中を見送らないお爺さんの気持ちが分かる気がして、言葉を探して、でもあたし程度じゃそんなものは見つからなくて。
「ところで、その駒は結局どういう駒なんデスか?」
話題を変える。
単純に興味があったし、大事そうな駒だからお爺さんも話したいかもしれない。
まあ、やっぱり一番知りたいのは値段だけど。
「ピペルパン通りは旧市街と呼ばれておるじゃろう?」
お爺さんは傍らに置いていた鞄から、革で装飾された箱を取り出す。それを開くと、中は丁度駒が入る大きさに区分けされていた。その一つ一つに鮮やかな赤い布が詰められている。
専用の、豪奢な駒箱。駒が傷まないようにクッション付き。
「なぜ旧市街と呼ばれておるか知っておるか?」
どこにどの駒をしまうかも決まっているのだろう。綺麗に並べながら、ヤガートお爺さんはそう聞いてくる。
「それはまあ、今は中央区の王宮に引っ越したデスけど、昔の王族はこのあたりにあった王城に住んでたから……あ」
まさか。
かなりお歳を召したご老人。かつての王城があったという旧市街に住む、古い住人。ということは、この人は元王城務めの可能性が――
「ほれ」
ヤガートお爺さんは駒をしまい終えて、箱の蓋を閉じて、そうして……こちらに差し出してきて。
頭が真っ白になっていたあたしは、それを反射的に受け取ってしまって。
「チェスの立会人、ご苦労様じゃった。これは報酬じゃ。由緒正しい代物じゃから、うっかり人の心が分からん片眼鏡にとられるんじゃないぞ」
クツクツと笑って、彼は杖を手に立ち上がる。
あたし上司が片眼鏡って言ったっけ……じゃなくって、いや待って待って待って。これ値段がどうとかじゃないやつだから待って。
「こ……駒は、またウルヴァス氏と賭けて戦うって話では?」
「チャンスはくれてやった。それを掴めなかったのじゃから、悪いのはあやつじゃろ」
肩をすくめて晴れやかに。
老人は毒のある棘を隠しもしない花のように、悪戯っぽく笑ってみせた。




