花の香りの東屋で
花の香りを乗せた風が、ふわりと東屋に吹き込んでくる。
盤を覗き込むように前傾姿勢になっていることに気づいて、背筋を伸ばした。手は腰の後ろに回す。
チェスの立会人、なんて妙な役回りを流れでさせられて、最初はどうしたものかなと思っていた。けれど存外に見入ってしまっている。なんだかんだで観戦してしまっていたらしい。
スゥ、と鼻から息を吸った。心を落ち着かせる香り。もしかしたらこの公園の花壇と東屋は、この匂いに包まれてチェスをするためにあるのではないか……なんて感じてしまう。
まあそんなことはないだろうけれど、ヤガートお爺さんがこの場所を選んだ理由は分かる気がした。
――正直に言って、ウルヴァス氏の態度や言葉はイライラするからだ。
彼にとってこの勝負は、大切な駒がかかったもの。肉親相手とはいえそれなりに気負って戦っているはず。
それなのにウルヴァス氏はスキルを自ら封印している。試合の途中であたしとの私語も止まらなかった。なにがなんでも勝とうとしていないのは明白だ。
つまり、二人のスタンスは隔たりがあった。ヤガートお爺さんは勝つために戦っているのに、ウルヴァス氏は勝敗を度外視しているのである。
なら、ヤガートお爺さんは勝つしかない。全力でない相手に負けること以上の屈辱はないからだ。
――あんなに努力したのに負けるのか、と笑われるのを恐れる。
ヤガートお爺さんはウルヴァス氏の在り方をそう言い表した。なるほど積み重ねれば積み重ねるほど、それに対する想いは強くなる。負けたくなくなるのは当然だ。勝負に対して臆病になることもあるだろう。
努力したという自負が、敗北を許さない。
しかし敗けの言い訳を事前に用意して、勝ったらラッキー程度の覚悟で挑む人間など、真剣勝負の盤の前に座るべきではないのだ。
勝負に臨むなら、盤を挟んだ相手が負けても気持ちよく尊敬できる人間であるべきだから。
ウルヴァス氏は勝負に臨む者として礼を失している。
「まだあの片眼鏡の方がマシ、デスね」
小声で呟いた。うちの上司は初心者相手にも手を抜かない。圧倒的な力で、最短手数でねじ伏せてくる。ちょっと本気で殴りたくなる。
それでも手加減されるよりはマシなのか、とやっと気づいた。
そういえば、あたしが一回だけ勝ったときも言い訳はしなかった。鉄面皮はさすが負けても心が揺らがないのだなと感心したものだが、もしかしたら彼にもチェスプレイヤーとしての矜持があるのかもしれない。
盤上に視線を戻す。ちょうど盤の端にいたウルヴァス氏の白のナイトを、ヤガートお爺さんの黒のビショップが倒すところだった。すぐに女王が仇を討って、盤から二つの駒がなくなる。
盤遊戯で優勢か劣勢かを見極めるのは難しい。単に持っている駒の数が多ければいいというわけではないのだ。
どれだけ駒が利いているか。これが重要。
簡単に言えば……守りに参加している駒。攻撃に参加している駒。そのどちらにも参加できていない駒。盤の上にはこの三種類の駒が存在しているのだ。
防御にも攻撃にも利いていない、そっぽを向いている駒はいないも同じ。戦力から外れてしまうのである。
――今、この一瞬だけウルヴァス氏の女王が少し動きにくいなと、そう思った。
「え?」
思わず声が出た。ヤガートお爺さんが端っこの白のポーンを手に取ったからだ。
ルークのすぐ前。開幕からまったく動いていない兵士。……それをどかして、黒のビショップをそこへ移動させる。
ポーンとビショップの交換。暴挙と言っていい突撃。素人は絶対にマネしてはいけません、のやつ。
「…………」
ウルヴァス氏はすぐには動かなかった。
それであたしも分かった。とればルークの横の利きがなくなるし、キングとルークを同時に動かし守りを固めるキャスリングもできなくなる。守備ができない。
読めば読むほどに理にかなった手。けれどこれから一手でも緩めば、あっさり無意味と化す手。……勝てば良手だがダメなら失着の、指す方が恐怖する手。
それは身を投げ出すような、己の読みを信じ切る勇気の一手。
「どうしてなんでしょうね」
独白のように、ウルヴァス氏は首を横に振る。ルークを摘まむ。
黒のビショップが討ち死にする。さらに次の番では、黒のナイトも倒れた。
駒の数はウルヴァス氏の白が圧倒的。
「世界はこんなに不平等なのに」
けれど黒のクイーンは力強く中央に陣取り、誰も守らない初期位置のキングへ迫る。
「ただ、平等でありたいだけなのに」
いつのまにか白は逃げることしかできなくなっていた。圧倒的な駒数差がありながら、キングを守る駒も敵陣を攻める駒もない。わずかな敵に追い立てられ逃げ回る王を、多くの臣下たちが棒立ちで眺める。
それは、とても惨めに映った。まるで彼自身のようだ。
「……どうして、こんなに美しい」
黒のポーンが最奥に達する。薄氷を一歩一歩進んできた最弱の駒が、最強の駒になる。
それで、チェックメイト。
まるで芸術のような、美しい終盤図だった。