結局、お前はそれなんじゃな
白のビショップが二マス引いた。……普通の定跡なら一マスだが、二マス。とはいえまだよくある形。
ただ、指が離れるとビショップは、その心の内を示すようにグラグラと揺れた。
「大事な駒が倒れて欠けたりしたらどうするんデスか?」
「…………失礼」
筋骨隆々の男は大きな指でそっと駒を押さえる。
ヤガートお爺さんは彼のことを、頭も身体も鍛えたくせに心が伴っていない、と言っていた。つまり彼は昔から、こんなふうに簡単に動揺してしまう人間なのだろう。他人の心ない言葉も律儀に受け取る真面目なタイプなのかもしれない。
うーん、少し悪いことをしたかも。他の場でなら相手が地面に這いつくばるまで舌戦してもいいのだけど、今はチェスの最中だ。試合の邪魔はよくない。
「――なんのために努力をしているのか、ですか。ええ、もちろん今と未来のためですとも」
続けるんだ?
「どうやらスキルを封印について、できなくなる物事だけに囚われているようですね。だから、なんのために、となる。しかし私の考えは根本的に違います。……なにかが成せなくなるからダメ、というのは突き詰めていけば、成果がなければ価値がないということでしょう?」
先ほどビショップを下がらせた黒のポーンが、一歩進んで今度はナイトをいじめる。
「そして成果主義は結局、スキルに恵まれた者だけが評価される。天恵スキル、あるいは他のスキルでもいいですが、運良く高ランクのスキルを手に入れた者ですね。もちろんちゃんと努力をしている人はいますが、周囲にはそれが伝わることは少ないわけです」
まるで繰り返しのようだ。さっきのスキルはズルという話との違いが分からない。
平静を装った声を出しているが、あたしと目を合わせようとはしない。たぶんザールーン教の教えとやらをそらんじてるだけ。
「スキルを封印し、そんな不平等がなくなって成果主義から身を引いたとき。そのときこそ人間性を真正面から見られるのだと思うのです。それは生身だけの己しかないということですからね」
白のナイトは攻撃を避けて端へ。戦場の横から遊撃を狙う。
「それはつまり、人間の価値そのものを見るということに他なりません。そして自分自身と向き合うことにもつながります。剥き出しの自分自身をどう律して……」
黒のビショップが動く。中央へ。
ウルヴァス氏の言葉が止まる。
「そんな迂遠なことをせずとも本質は見えるじゃろ。少なくともミクリお嬢ちゃんは、お前のことを見透かしたぞ。なににも必死になったことがない人間じゃとな」
明らかに定跡ではない攻撃的な一手だ。中央の激戦区に跳び込んでいずれキングが向かうだろう端を睨むくせに、どの駒にも護られていない。
「大事な駒が賭かった一戦じゃというのに、いつまでも呑気にお喋りしておるのがその証明じゃ。本気でやる気があるのか?」
「…………っ」
ウルヴァス氏は下唇を噛んだ。挑発に乗るようにビショップを狙ってポーンを動かす。
ヤガートお爺さんの黒い騎士が進軍してきた白の兵士を討ち倒した。しかしその隙をついて白の女王が黒の守備を食い破らんと睨みを利かす。
両者とも王はまだ一切動いていない。最初は定跡どおりだったのに急に乱戦の模様だ。
「ああ、それとも相手が女子だから浮かれちまったのか。もしかしてザールーン教に入った理由は、そんなふうにジャラジャラ装飾品をつけるのがカッコいいと思っているからか? 儂はセンス悪いと思うのじゃが、若者の流行は分からんの」
一気に盤面が動いたが、ヤガートお爺さんは飄々と会話を続ける。
「女性に格好を付けるための封印具じゃないですよ、これは」
憮然として、ウルヴァス氏は駒を摘まむ。――その一手に思わず目を見張った。
ナイトのタダ捨て。しかし罠。黒はナイトで取れるが、そうすると良い位置にいたナイトが激戦区の外へ出る。守りが薄くなり、陣形を食い破ったクイーンに大暴れされてしまう。
かといって放っておくこともできない。
小考の末、ヤガートお爺さんは白のナイトをとる。否、とらされる。
ノータイムでクイーンが黒のポーンをとる。……その位置はルークと、先ほどの攻撃的なビショップの両取りだった。
「こちらがスキルを使わないと知ると、相手は有利だからと油断するんですよ。そして序盤で思いつきのような手を指してしまって、あっさり巻き返せないほどの差ができてしまう。よくある展開です」
ニィ、とウルヴァス氏が不敵に笑む。おお、したたかだ。
実際に盤面はかなりの差ができているように見えた。単純な駒の損得で言えば大した差はないけれど、ヤガートお爺さんの右辺はほとんど壊滅している。
「そうかの? お前は他人に良く思われるために努力しておるのじゃろう? なら、その装飾具も格好つけの一つだと思うが」
けれどヤガートお爺さんはウルヴァス氏の笑みを無視した。会話は一つ前のものの続きで、ビショップを守り右辺を完全に見捨てる一手を指す。
「まだ言いますか。格好良いと思われたいのではありません。誰に恥じることなく自分を誇りたいからスキルを封印しているのです。それのなにが悪いと言うんです」
クイーンでルークをとるウルヴァス氏の指先にはもう、動揺はなかった。
盤面は彼がかなり優勢だ。スキルを使っても自分に勝てないような相手の言葉など、彼には届かない。この戦況なら余裕も取りもどせるだろう。
「誰に恥じることなく、のう……」
けれどそんなピンチの中、つまらなそうにヤガートお爺さんは駒を摘まむ。
……この戦況でキャスリング。嘲笑うような、王を守る落ち着いた手。
「結局、お前はそれなんじゃな」
あたしはヤガートお爺さんへ視線を向けてみる。彼はじっと盤面を見ていた。
彼は間違いなく、ゲームが始まってから一度も顔を上げてはいない。それが容易に想像できる姿。
盤を挟む者の姿勢。
「昔から努力し積み上げるのが得意で、だからこそ敗北を恐れる。あんなに努力したのに負けるのか、と笑われるのを恐れる。まあでも、スキルを封印すれば負けても当たり前じゃものな。良い言い訳を手に入れたものじゃ。――負かせてやるから、存分にその恥ずかしい言い訳を使うと良い」