ザールーン教
こちらの陣の最奥までやって来たクイーンが、下から陣全体を睨んでいる。少しでも隙を見せれば食い荒らされるし、そのままでもいずれ右辺の攻撃と連携されるだろう。
厄介だ。けれど黒の女王にはまだ援軍がなく孤軍奮闘状態。それに中央はすでに圧迫している。うかつに動けないのは向こうの方。
「儂はこういう盤上遊戯が好きでな。特にチェスはいい。ルールに余計がない」
その証明のように、次に黒が動かしたのはビショップ。駒が利く位置に移動してこちらの陣地を睨んでくる。
「余計がない、デスか。まあルール自体は単純デスよね」
駒の動き、キャスリングの条件、引き分け判定の仕方など、多少は覚えることはあるけれどそこまで難しくはない。説明書を読みながら何回か対局してみれば覚えられる。
そして突き詰めれば、ただ交互に駒を動かして、先にチェックメイトすれば勝ちなのだ。簡単なルールだ。
「しかしゲームは非常に奥深い。数々の陣形があり、戦術があり、そのそれぞれに応用がある。そして新しい発見があり、その発見に対する対策がされ、城塞の石レンガを積み上げるように、高みへと至るようにそれが繰り返されていく。そうやっていつもまったく見たことがない盤面が開拓されていく」
ルールは単純。けれど、ゲームは複雑。
あのグレスリー・ドロゥマンがなぜ気分転換にこれを選んだのか。それはつまり、全力で集中しなければならない遊戯だからに違いない。
そして、今の会話で確認ができた。この相手の実力は相当だ。
「ああそういえば、せっかく知り合ったのじゃし聞いておくか。お嬢ちゃんはスキルについてどう思う?」
「スキル……デスか? そうデスね……」
次の手を考えながら応対する。
初対面同士の、公園の野良試合。持ち時間のあるような対局ではないけれど、だからこそ長考は文句を言われがち。
けれど向こうから振ってきた雑談をしながらなら、よっぽど文句は言われまい。……いや、言ってくる相手はいるのだけど、その場合マナーが悪いのは向こうの方だから気にする必要はない。
「急に話が変わりすぎじゃないデスか? 聞かれていることの意味が分からないデスね。どうと言われても、ハズレスキルとかでなければ便利でいいくらいにしか思わないデスけど」
「ま、普通はそうじゃろうな。では質問を変えよう。たとえばこのチェス盤の駒たちが、それぞれスキルを持っていたらどうなると思う?」
ふむ。自陣の守りが気になるところだが、やはりここは攻めるべき。
「ポーンが一回だけ他の駒の動きをしたり、キングが攻撃してきた駒を返り討ちにしたり、みたいな子供の考えそうなやつデスか? そういうルールで一、二回やるのは楽しいんじゃないデスかね」
「そうじゃの。これが終わったら一局やってみるかね?」
「遠慮しておくデス」
この相手に遊びのようなルールでやる意味は感じられない。そういうのは初心者が思いつきでふざけてやるものだ。
あたしとこの老人には必要ない。……なぜなら、このゲームはこの状態で十分が奥深いと知っているから。知っている者同士なのだから、児戯に堕としてはもったいない。
だって今あたしが指した一手ですら、正解かどうか分からないのだから。
「ほう、そうきたか」
老人が指で顎髭をクルクル弄りながら、ニヤリと笑む。
「それでは、こうじゃな」
黒のルークを取ったはいいが、しょせんは囮。ビショップのいる位置はどこにも利いていない、まったく働いていない状態だった。
これではビショップを役立たずにされたのと同じだ。だからちゃんと攻撃できる場所へと動かしたのだが……手番の老人は悠長にも、また右端のポーンを動かす。
そして、雑談の続き。
「チェスにスキルは必要ない。あっても複雑になりすぎて壊れてしまう。そんなものはチェスではなくなってしまう。そうじゃな?」
「まったくその通りデス」
「それと同じように、スキルがあるせいで世界は複雑すぎる有様になってしまった、だからスキルを使用するのはやめて自然な肉体だけで生きるべきなのだ。……などと主張する一団を、お嬢ちゃんは知っているかな?」
あー、あれ。
「ザールーン教。スキル封印具をジャラジャラつけた反スキル団体デスね。チェスでのたとえは知らないデスが」
あのアネッタに出会う前の、一時期のロア殿下みたいな姿をした者たちだ。強すぎる威圧スキルに頭を悩ませていた殿下は、全身黒ずくめの装飾品だらけという怪しい格好をしていたことがある。
まあ、あそこまでガチガチに固めている者は少ないだろうが。
「富裕層のお遊戯集団デスよね。高価なスキル封印具を買い集めてわざと不便な生活をして、ナチュラル派を気取る意識高い系の小さな団体。金持ってるからスキルに頼らなくても生活に困らないだけなのに偉そうにしてる、世の中舐めすぎな頭の中お花畑たち。教義も信者もあんまり好きじゃないデスね」
「親族に信者でもいたんか?」
いないけども。
たしか……あたしが生まれる前からあるような、根強い思想団体だったはず。だけど印象的には細々とやってる小さな宗教みたいな感じ。
取り立てて注目するようなことはなかったはずだけど。
「なんデス? お爺さんはザールーン教の人デスか?」
「いいや。封印具なんぞ使ってないじゃろ?」
「それもそうデスね」
チェス盤を挟む老人は装飾品らしき装飾品は付けていない。左手の薬指にずいぶん古い結婚指輪をしているくらい。
「南部戦線はセレスディア様の天啓のおかげで有利に運びましたし、強力なスキル持ちの部隊が活躍したみたいデスよ。スキルがなければ、今頃この国は負けてたかもじゃないデスか?」
「ああ、それは正論じゃ。じゃが話は通じん。なにを言ったところで向こうの結論が変わることはない」
ま、話して分かる相手ばかりなら銃はいらないデスからね。
雑談を続けながらも慎重に考え、駒を動かす。こちらもポーン。この混沌とした盤面で、互いに力を溜める手。
老人の指が駒を摘まむ。また、ポーン。
「で、じゃ。実は離れて暮らしとる孫がその厄介な集団に毒されたようでな。今日はこれから会って、チェス盤を挟んでそやつと賭けをするつもりなんじゃよ。――すまないがお嬢ちゃん。これも何かの縁と思って立会人をやってくれないかね?」