花の香りの公園で
コトリ、と駒を置く。
盤の中央。八方に睨みを利かせる白のナイト。定跡を無視した、あまりにも強気な一手。
コトリ、と駒が置かれる。
盤の右端。中央を嘲笑うような黒のポーン。キャスリングしたキングへ向かう堅実な一手。
むぅ、とあたしは腕を組む。
気の強い相手なら乗っかってナイトを狙ってくるところだし、慎重な相手なら守りを固めるところ。けれど相手は気にせず無視してきた。中央の攻防に興味は無いのか。この位置でナイトが睨みを利かせれば相手の陣形を圧迫するから、駒が動きづらくてけっこう邪魔だと思うけれど。
小考して、中央のポーンを前へ。相手の陣形を窮屈にして手を遅らせながら、その間に真ん中を食い破る作戦を選ぶ。
ピペルパン通りの店が並ぶ大通りから、道を一本外れた場所。耳を澄ませば人々の声がかすかに届いてくる場所に、その花畑で彩られた公園はあった。
花の香りのそよ風が抜ける東屋で、駒の音が交互に小さく響く。
「だいぶん勉強しとるな、嬢ちゃん」
自然をそのまま伐りだして作りました、みたいな皮付きの木のテーブル。そこに置かれたチェス盤の向こう側から、対戦相手が話しかけてくる。
「嬢ちゃん、なんて歳じゃないデスけどね。ミクリって名前がちゃんとあるんで、そっちで呼んでくれると嬉しいデス」
「どう見ても二十歳そこそこじゃろう、嬢ちゃんは」
当たってるけれど、それはつまり成人済みってことだ。つまり嬢ちゃんだなんて呼ばれる歳ではない。
まあ、このお歳の御仁からしたら、まだまだ子供に見えるのかもしれないんデスが。
チェス盤を挟んであたしの対面に座するのは、頭頂部がすっかり禿げ上がって日焼けしたお爺さんだった。
小さくて細い身体の、腰が曲がったご老人。柔らかそうな白い顎髭を指でクルクルと弄っている彼は、今日が初対面のこの街の住人だ。足が悪いのかベンチに杖を立て掛けている。
たぶん六十は過ぎてるだろう。七十くらいは行ってるかもしれない。人生の大先輩だ。この人とっては、あたしなんて小娘にしか見えないのも分かる。
……でも、さすがに戦争経験者を子供扱いは失礼ではないか。こっちは王様から勲章もらってるんデスけど? 潜伏任務中だから言わないけど。
ため息を吐く。好きに呼べば良い。呼び方なんかどうでもいい。こんなことで腹を立てる方がよほど子供らしいし。
「上司の息抜きに付き合わされることが多かったんデスよ。休憩中もずっと業務のことを考えてしまって休まらないけれど、これをやってるときはこれだけに集中できるから、頭の中から仕事のことを追い出せるんだそうデス」
あたしは、コンコン、と指で頭の側面をノックしてさっきの質問に答える。
「ほう、なかなか気難しそうな上司じゃな。そうやって嬢ちゃんは鍛えてもらったわけか」
「いいえ? 鍛える気なんかなくただボッコボコにやられてたデスよ」
これはあの片眼鏡がまだ冷血だったときの話だ。初心者相手に血も涙もなく最短手数でチェックメイトしてくるあのカスの頭上に鳥の死骸が落ちてきますようにと、何度祈ったことか。
たぶんあれは、多忙な作戦参謀グレスリーの唯一の趣味……だとか、そういうわけではなかったのだろう。だってそもそも、楽しそうですらなかった。
おそらくルーティーン。一つの業務が終わり新しい業務が始まる束の間、頭を切り替えるためだけにやっていた儀式のようなもの。
作戦参謀グレスリー・ドロゥマン。どんなに冷酷な策も眉一つ動かさず実行する絶対零度の男、鉄面皮のドロゥマン。
そんなふうに呼ばれていた男もあの時間だけは、目の前の盤面のことだけを考えていたのだろう。
「で、いい加減ムカついたんで、ちょっと本気で勉強して一回勝ってやったんデスよね」
「ほほう」
ひょいとビショップを持ち上げる。黒のルークを睨む位置へ置く。
長い年月を人の指で摘ままれてきただろう駒たちの表面はどれも滑らかで、光沢のある艶を見せていた。駒は使い込まれて完成すると言うが、小まめに手入れしていないとこうはならない。時の流れに負けてくすむか黄ばむかしてしまうだろう。
だからこの駒の美しさはそのまま、この御仁の人格を表していた。
「そしたら、その日から息抜き役の専属になって散々ボコられることになったデス。陰湿デスよね」
コトリ、と控えめな駒音が響く。
「ジジイ……」
「おや、口が悪いなお嬢ちゃん」
狙われたルークはそのままに、嘲笑のようにビショップの真下へ動かしたのはクイーン。駒が浮いたこちらの陣形の隙間を縫うように、奥深くへ切り込もうとする一手。
城塞をほったらかしにして最強の駒が単騎駆けしてくる。けれど咎めることができない。ルークを取れば引き換えに自陣がかき乱される。しかし自陣を守ればビショップが背後から討たれる。
こちらのミス? いいや。囮とはいえルークを取れば戦力は削れる。戦況は五分のはず。盤面はかなり混沌とするが、不利ではない。
だが、五分なのが問題だ。
「鍛えがいがあるのを見つけたなら、そりゃあ呼ばれちまうじゃろうな」
このジジイ、この局面までを読んでたデスね。
あたしは腕を組んで盤面を睨む。先後共に有利不利を付けづらい局面だ。まるで定跡通りに進んだ後の、ここからはご自由にお指しください、みたいな状況。ペースは握っていると思っていたが、ここまでが相手の思惑通りなら話は変わってくる。
すぅー、と鼻から息を吸う。漂う花の香りを感じる。わざわざ外でチェス盤を広げるなんて酔狂な爺さんだと思ったものだけれど、なるほどなかなか気分がいい。大きく息を吐く。
黒のルークを盤の外へ取り除く。ビショップを移動させる。
クイーンが陣の奥まで切り込んでくる。
ノータイムで中央のナイトを動かす。