元々の人格
はぁー、と深いため息が聞こえた。注文を取りに来たウェイトレスからだった。
十二、三歳くらいだろうか。ずいぶん小さいと思っていたが、おそらくこの店の娘さんなのだろう。アップにしたブラウンの髪と勝ち気な吊り目、そして少しぽっちゃりとした体型が印象的な女の子が、睨み付けるように見下ろしてきていた。
「あなた軍人さんよね? その服でお酒を飲む気かしら?」
指摘されて、自分の服を確認してみる。――ああ、軍服だったか。なかなか着る機会がないから忘れていたな。
こういう服では羽目を外してはいけない。鉄則だ。
ここに至っては知ったことではないが。
「今日は休暇なのに、上司に連れ回されたのでな。もう用は終わったから問題ない。上司もどこかへ行ってしまったしな」
「それは同情するわ。だからってお酒は出せないの。うちは夜しかお酒出さないからね」
なんだ。なら上着を脱ぐ必要もない。
「というかいくら休日だからって、朝から飲むなんてだらしないでしょう」
「自分もそう思うがな。人には酒を飲まねばやっていられないときもあるのだ」
「はいはい。それで、どうしますかお客様?」
食事をしないのならば帰れと。
ここは見たところ普通の料理屋で、酒場ではないのだろう。というか酒場なら朝から開いていないか。
「しかたない。なら普通に食事をしよう」
というか、なぜ自分は腹が減ったから料理屋に入ったのに酒を頼んでいるのか。しかも一番度数の高いものだなんて、空きっ腹に酒は悪酔いするだろうに。
これもすべてあのオッサンにイラつかされたせいだな。止めてくれたこのウェイトレスに感謝すべきかもしれない。
「はい、メニューはこれね」
テーブルの端にあったメニューの冊子を渡されて、開くと多くの料理が載っていた。
メインはパスタと肉料理のようだが、魚も野菜も卵料理もある。あまり見かけない珍しい料理もあるし、デザートも多い。どうやらたくさんの中から選べるのが売りの店らしい。
……さて、どうするか。メニューを流し見ながら、けっこう真剣に迷う。
食べ物の好き嫌いは他人になりきるのに重要な情報だ。会食はもっとも基本的な情報収集の場であるが、そんなときに変装している相手が大嫌いなものを注文してしまったら目も当てられない。だから変装するときはしっかり食の好みも下調べする。
この店ならば……マルクならチーズが多く使われたパスタ、ミクリは肉ならなんでもよく、ロア殿下ならメニューの中で一番目立つように書かれたもの、という感じだろうか。
しかしそれは、自分にとっては指針でもあったらしい。
「……なるほど。これが自己を失うということか」
パタンと閉じて、メニューを置いた。幼いウェイトレスへと顔を向ける。
「この店のオススメを頼む」
はぁー、とため息が聞こえた。
なんだろうか。まるで諦めたかのような、すべて分かっていたかのような。
「はい注文うけたまわりました。少々お待ち下さい」
ウェイトレスの少女は不機嫌そうに唇を大きく歪め、そう言って奥へ引っ込んでいく。
まあ、今の自分は厄介な客なのだろう。背もたれに体重を預け肩をすくめる。
せめて給仕してくれたときには謝るか。そして料理にはケチをつけることなく完食しよう。幸いなことに、自分には食の好き嫌いなどないのだから。
「お待たせしました」
しばらくしてウェイトレスの少女が並べてくれたのは、トマトがベースの挽肉と香味野菜のパスタ、そしてハーブを混ぜ込んだ腸詰めのグリルだった。
これは店に入ったときに見ていた、壁に貼られたメニューにも書かれていたものだろう。あんな頼み方をすればこうなるだろうと納得である。まるでロア殿下のような注文になってしまったな。
「ありがとう。面倒な頼み方をしてしまってすまなかったね」
「いいわ。たまにあることだから」
先ほど決意したとおりに謝ると、少女は手に持ったトレイをヒラヒラと扇ぎながら許してくれる。
どうやらたまにあるらしい。大変だなと思っていると、幼いウェイトレスは少しだけ口を尖らせた。
「あなた、剥奪屋の帰りでしょう」
二度、まばたきをしてしまった。動揺を表すのはスパイとしてあまりよろしくない。
「あっちの方から来てたの窓から見てたのよ。たまにあそこのお客さんが寄るけど、様子がおかしいことが多いのよね」
あっちの方と、自分が来た方向を指さされる。当然、その方向にあの店はあった。
つまり剥奪屋の方から来る変な客、みたいな前例が何人かいるらしくて、自分もその不名誉な一人になってしまったわけだ。嫌だな。
「分からなくはないのだけどね。スキルがなくなる、って身体の一部がなくなるのと同じようなものでしょう。失った自分と向き合うための時間がいるわけ。で、しばらく座るためにこの店に来る、と。あなたは分かりやすいわ」
むぅ。自分は上司への苛立ちから酒を飲みに来たのだが、しかし理解はできるな。
――どうにも、さっきから強い喪失感が消えない。変装スキルを剥奪されたときに自失するほど覚えたそれは、今もまだ塞げない風穴のようだった。
自分の中からなにか大切なものがこぼれ落ちてしまった気がするのだ。
「それで、なんのスキルを剥奪されたの?」
「顔の雰囲気を変えるスキルだな。有用だが副作用があるスキルで、頻用すると自分が何者か分からなくなっていく」
「へぇ、好きなものも選べないようじゃ重症だ」
少し違和感があった。正直どうでもいい類の違和感。
なんでこの子はここで立ち止まって自分なんかと話しているのだろう。
気になってさりげなく視線を巡らせると、店内に客は自分しかいなかった。なるほど暇か。中途半端な時間に来てしまったものな。
クルクルとフォークにパスタを巻きながら納得する。
そして同時に、自分はこんな子供に気軽に話しかけられるような顔をしているのだなぁと知った。なんなら軍服姿なのだが、それでも威圧感とかは醸し出されていないらしい。
ソースに搦めたパスタを口に運ぶ。
「ねぇ、スキルの剥奪ってどうやるの?」
一口食べて、その味に舌鼓を打った。おお、これはかなり美味いな。
しっかり味わってから飲み込む。
「剥奪屋の店主と握手して、数秒で剥奪されたな」
「痛かった?」
腸詰めを味わう。これも美味いぞ。たまたま入っただけの店だが、期待以上の当たりだな。
「いや、痛みはなかったよ。不快感などもない」
「そうなのね……」
どうやらこの少女は剥奪屋に興味があるが、詳しくは知らないようだ。
「もしかして、なにか剥奪したいスキルがあったりするのかい?」
気になってしまって聞いてみると、小さなウェイトレスはまた口を尖らせる。それが彼女の癖なのだろうか。
可愛らしいなと眺めながらパスタをもう一口。
「……アタシ、なんだか太りやすいのよ。運動とかちゃんとしてるのに。だから太りやすくなるスキルとか持ってるのかもしれないって思って」
うーん、パスタ美味しいなぁ。
こんなお店の子なら毎日美味しいもの食べてるんだろうなぁ。
あの剥奪屋も苦笑いだろうなぁ。
「スキルにはいろいろな種類があるし、本人が気づかないうちに習得しているスキルというのも珍しくはないものだ。可能性は十分あるね」
「そうでしょう! 絶対スキルのせいよ!」
たしかに彼女の体型はぽっちゃり気味だ。自分としては特に問題ないと思うのだけれど、思春期の女の子にとっては重大事だろう。
そしてこれは……おそらく自分のような、二度と会わない余所者にだからこそ打ち明けた悩みに違いない。
大丈夫だ任せてくれ。自分はスパイだからな。情報を得るために適当な言葉で相手を良い気分にさせるのが仕事だ。君の心を傷つけたりはしない。
「しかしスキルを剥奪するなんて珍しいというか、ほとんど反則みたいなスキルだからな。あそこはけっこう値段が張ったぞ。君に払えるか?」
「それよねー。お店のお手伝いをしておこづかい溜めてるけど、まだまだかかりそう」
「おお、それでウェイトレスをやっているのか。地道に努力できるのは偉いな」
適当に合わせながら水を飲む。うむ、これも美味い。ただの水だが、美味しい料理と面白い話が一緒なら美味いものだ。できれば酒ならもっと良かった。
「ねぇ、剥奪屋さんってどんな人だった? 恐い人?」
おっと。詳しくないどころか、剥奪屋のアネッタさんを知らなかったのか。
まあ同じ土地に住んでいてもみんな知り合いというわけではないだろう。この少女はストリートの先に剥奪屋があることしか知らないのではないか。
さてどうしよう。普通に伝えるのもいいが、少しからかいたい気分もある。せっかくだから、すごく恐い顔をしていたと言って脅してあげようか。
なんなら――
「――ああ、そうか」
不意に気づいてしまって、そんな声が漏れた。なるほどなぁと呆れた。
それはあのグレスリー・ドロゥマンも、自分をあんなところへ連れて行くだろうなと理解できた。
「どうしたの?」
幼いレディが不思議そうに聞いてくる。話の途中で急にスンとなってしまったからな。すまないね。
「いやなに。大したことじゃないんだ。さっき剥奪してもらったスキルについて、ちょっとね」
少女へそう言って、肩をすくめる。
「元々あのスキルは、仲間を笑わせるための一発芸だったなと、やっと思い出したんだ」