心の仮面
自分はジャック。これは仮名であり、本名はスパイとなるときに捨てている。
「それでは、お世話になりました」
捨てたとはいえ、本名は覚えている。さすがに忘れてはいない。
「あ、はい。ジャックさん、くれぐれも体調不良などありましたら――」
だが、使うことのなくなったその名はもはや記憶の片隅にしかなくて、思い出すのに時間がかかった。
「分かっています。早めにスキルを戻す、ですね」
人格もそういうものかもしれない。使われなくなったものは端に追いやられ、いずれおぼろげになって、思い出そうとしてもなかなか思い出せなくなってしまう。
「ジャック」
しかし、鏡で自分の顔を確認してもピンと来なかったのは少々、拍子抜けした。
「ジャック」
グレスリーさんは覚えていてくれたようだし、自分でもそういえばこういう顔だったなとは思ったが、どうにもピンとこない。
というか自分が長く鏡を覗くときは、誰かになりきるときに上手く化けられているだろうかと確認するためだった気がする。自分の素顔を真剣に見つめるなんてあまりなかったのではないか。
「ジャック」
「はい、なんでしょうかグレスリーさん」
気づけばスキル剥奪屋という希有な店の外に出ていた。
住宅街だがあまり人気がなく、閑散とした雰囲気。そんな町並みに似合わない監視されているような視線は、この辺りで潜伏しているというロア殿下とマルクミクリの双子だろう。乗って来た馬車はすぐ近くに停まっていて、御者の男がこちらを見て出発の準備を始めていた。
「…………どうですか、調子は?」
「おおむね良好です。ですが、自分自身というものをどう振る舞えばいいのか分かりません」
「なるほど。困惑しているようですね」
グレスリー・ドロゥマンは片眼鏡を外して、取り出した布で拭く。
それは彼の昔からの、思考するときの癖だった。何かを考えるときは思い出したようにレンズの汚れを気にするのだ。片眼鏡を外した方の瞼が閉じているところまでも変わっていなくて、少々懐かしい。
「以前、この町に住んでいる方とお話する機会がありましてね。中央の大学で教授をやっている人なのですが」
そう語りながら、彼は片眼鏡をつけ直す。
「その方の話によると、ここの店主のアネッタさんは引っ込み思案で人と接するのが苦手だったようです」
「そうなのですか? 普通のように見えましたが」
「ええ。そうは見えないようにしているのでしょう」
グレスリー・ドロゥマンが微笑する。この表情はまったく懐かしくない。なぜなら以前はなかったものだからだ。
久しぶりにこの国に帰ってきてこの微笑を見たときは、どこぞの国のスパイに成り代わられているのではないか、と真剣に疑い銃把を握ったほどである。
「多くの顔を使い分けるのは、なにも変装の達人だけではありませんからね。どんな人間でも、いくつもの顔を持って生きています」
「……どういうことですか?」
「一人のときの顔。家族と過ごすときの顔。友人と遊ぶときの顔。恋人と逢い引きするときの顔。職場で同僚と仕事するときの顔。赤の他人に対する顔。敵と殺し合うときの顔。人はその場その場で、それを使い分けます。――たとえばロア殿下が我々といるときと、ご家族といるときとで同じ顔だと思いますか?」
「あの御方の境遇は特別だと思いますが、いいえですね」
自分はロア殿下とは少し話す機会があったくらいだから、平素についてはあまり知らない。しかし軍と王宮では勝手が全然違うだろうことは容易に想像できる。
「人は自分が今どういう役割なのかを認識し、その役割にもっともふさわしい仮面を被って演じます。先ほどのアネッタさんは店主としての仮面を被って、引っ込み思案なところを圧し殺していたわけですね。それに似たことは誰もが普通にやっていることで、珍しいことではありません」
「はあ……なるほど」
つまり自分のやっていることはその延長ということだろうか。
それはいいとして、なぜ今この話をされるのだろうか。
「ですがだいたいの人はどの顔も、本来の自分を少しだけ変えたものを用意します。あまりに自身と乖離した仮面を被り続けるのは無理がありますからね。最悪、心を壊しかねないでしょう?」
――ああそうか。つまり自分の精神は、すでに壊れているのだと。
たしかに自分はスキルのせいで、その振り幅が大きすぎた。自分の顔や性格を忘れてしまうのは異常だ。分かりきった話である。
「しかしジャック。自分の本当の顔を忘れてしまったあなたは、逆に言えばどんな仮面でも被れるでしょう。それは明確な強みと言えます。逆に自分の顔を取り戻し、そして本来の人格を思い出してしまったら、あなたのそのスキルは弱くなるかもしれません」
そう、それも真実なのだろう。
変装スキルは自己が壊れているからこそ完璧に使えるのだと、グレスリー・ドロゥマンという男は理解している。この男がそれに思い至らないはずがない。
ならば……そう。ならば。
今の自分は、忠誠を試されているのだろう。
「たしかにそうですね。自分のスキルはあくまで変装ですので、言動や性格に関しては演技しなければなりません。自分の人格に引っ張られるかもしれないのは隙です。なので、自己の精神など……」
「ええ。ですので次の任務までにあなたは自分の人格を取り戻したうえで、変装も完璧にこなせるよう訓練して下さい」
「………………は?」
聞き間違いだろうか。今、普通に無茶振りされた気がするが。
スキルの使いすぎで自分を失ったのはダメ、でも自分を取り戻したらスキルが弱くなる。そういう天秤の話になりかけたと思ったのに、なぜ天秤の皿を両方下げればオッケーじゃんみたいな頭の悪い子供みたいな解決法を提示してくるのか。
「さて。ところで最近知ったのですが、この辺りに古い馴染みが住んでいるようでしてね。久しぶりに会ってこようと思いますので、今日はここで解散することにしましょう。それではジャック。また明日、軍部で」
グレスリーはそう言って手を振り、微笑をこちらへ向けてから馬車に乗り込む。そして扉が閉められると、御者が手綱を繰って馬を歩ませた。
自分はそれを突っ立ったまま見送って、
「置いていかれた……?」
呆然と呟いて、眉をひそめる。