懸念と杞憂
トプン、と精神世界に入る。
そうして、なんとも言えない違和感に周囲を見回した。
ジャックさんのこの場所は、なんだろう。一見して普通に見えた。特別に明るいわけではなく暗いわけでもなく、スキルの光球の数も平均くらい。圧迫感があったり、冷たい感じもしない。
でも、どうしてか違和感がある。
「あれ?」
スキル剥奪を発動させて入るこの世界は、水の中のような感じだ。だから移動は、歩くより泳ぐイメージである。
けれど水を蹴っても掻いても、思ったように進めない。というか妙に遅くしか進めないのだ。……今までこんなことはなかったのだけれど。
まあ水の中というのはあくまでイメージなので、息が続かないとかそういうことはない。それに泳いでいればちゃんと進むので、がんばって移動する。
そして、その途中で、気づく。
「――そっか、薄いんだ」
一旦止まって、ゆらりとその場に浮かんで、確かめるように軽く手だけを動かしてみた。
なんとなくだけど、いつもより抵抗が少ない気がする。なんだか密度が薄い感じだ。だから泳いでもなかなか進まないのだろうか。
これがジャックさんの精神状態に関係しているのは想像に難くない。実際にどういう状態かは詳しくは分からないけれど、あまり良くない気はする。
移動を再開する。
ゆっくりとしか動けないけれど、それだけだ。そんなに手間取ることはないだろう。だってあの変装スキルはどう見てもかなりの高ランクだった。なら他のスキルは無視して、一番大きく、光の強いスキルへ向かっていけばいい。
「うん、これ」
目当ての光球へ触れて、間違いなく変装のスキルであることを確かめる。ジャックさんが言っていたとおり、本当に高ランクの習得スキルっぽい。よくここまで複雑かつ強力に育てたものだ。
ちょっと欲しいな……と思ってしまう。本当に欲しい。
わたしは人と会って話をするだけで、そのたびに後で一人反省会して吐いてしまうような心の弱い人間だ。たぶん今日もこれから吐くのだろうと思う。
でも、このスキルがあれば?
このお店では無理だと思うけれど、たとえば買い出しに行くときとか。自分じゃない別の人に変装して外へ出れば、どんな粗相をしたって問題ないのではないか。失敗してしまっても二度とその顔を使わなければ良いだけだし……うん、とてもいい。
「――でもそれだと、わたし、なくなっちゃうな」
こんなスキルを持っていたら、わたしはこの店でしか自分の顔を出さなくなるだろう。毎回別の顔で外に出て、誰でもなくなって、誰にも関わろうとしなくって……それが続けばいずれ、素顔ですらお店で営業するためだけの仮面になってしまう気がする。
でも、それでも使い捨てしない顔があるだけマシか。
この人は素顔が分からなくなってしまうくらい別人になって生きてきた。
他の誰かになっているときは、当たり前だけど自分ではなくなっているのだ。まるで自分自身を擦り切らせるようなスキルだと思う。
「本当のあなたは、どんな人なんですか?」
呟くように聞いて。
剥奪する。
精神世界から戻る。
ゆっくりとしか動けない空間だったけれど、まっすぐ一つだけを目指して当たりだったから時間はかかっていない。むしろいつもより短時間で終わったのではないか。
疲労もない。無理に剥奪したとき身体や心に感じる、ピリリとした痺れもない。まったく問題なく手の内にスキル輝石を感じた。
「終わりました」
言葉と共に、握手していた手を離す。いったいどんな色をした石なのだろう、もしかして虹色とか? なんて考えながら手を開くと、意外なことに薄いベージュだった。
宝石のようにキラキラしてはいないけれど、表面が滑らかで色が鮮やかでとても綺麗。習得系のスキルをひたすら突き詰めるように育てていった結果、みたいな感じがする。
「こちらが変装のスキル輝石になります」
いつもの台詞とともに、恐る恐る視線を上げる。……剥奪はちゃんとできた。けれど、変装スキルの解除はうまくいったのだろうか。はたして――
「ジャック」
グレスリーさんが名前を呼ぶ。わたしは相手の顔を見る。
「…………」
そこにいたのは、あまり顔の特徴が感じられない、地味な印象の男性だった。
灰色の髪は短く刈ったようで、髭もない。二十歳くらいのような気もするし、三十代前半くらいまでなら納得できる風貌。ちょっと垂れ目ぎみ? 少し鼻が大きい? 観察すればそういう細かい気づきはあるけれど、最終的には日焼けしていない白い肌だけが記憶に残りそう。
でも少なくとも、さっきまで変装していたナトリ二等兵の顔ではなかった。
そんな彼は……わたしがテーブルに置いたスキル輝石を眺めながら、ぼんやりしていた。グレスリーさんの呼びかけにも反応していないようだ。
「ふむ、どう考えますかアネッタさん。処置が遅かったですかね?」
そんなこと言われても、わたしはお医者さまじゃないんですけど。
「い、いえ、その。どうでしょう? 思い入れのあるスキルを剥奪した方は直後に強い喪失感を覚えますから、その状態のようにも見えますが……」
「なるほど興味深いですね。とりあえず、懸念は杞憂だったので良しとしましょう」
「懸念……?」
なにか他に心配事があったのだろうか。初耳で、わたしはグレスリーさんへと視線を向けて――ギョッとした。
彼は拳銃を手にしていたのだ。
その銃口を、ジャックさんに向けていたのだ。
「彼は変装のスキルを活かし、他国でスパイ活動をしていました。ええ、とても優秀でしたよ。――しかし、同レベルの変装スキル持ちが相手国にいないとは限りません。諜報活動中に下手をうって捕まり、帰国の際に成り代わられている可能性は捨てきれませんでした」
グレスリーさんは拳銃をしまうと、ハァとため息を吐く。
「しかも素顔を忘れていると言います。ああもしかしたら捕まったジャックは、それだけは守り通したのかもしれないな、と疑うのも無理はないでしょう? まあ杞憂だったわけですがね。この身は諜報員として送り出される前の彼の顔を覚えていますので、間違いありません」
そうか。変装の達人で素顔も見られないなら、身元が確認できない。それに変装した相手に人格や振る舞いを寄せるから、ジャックさんらしさもないと言われていた。
長く他の国にいたのだから、入れ替わられる機会があってもおかしくはない。グレスリーさんは最初からそれを危惧していたのだ。
「それ……もし本物のジャックさんじゃなくて他国のスパイさんだったら、わたしすごく危ない目に遭ってたんじゃないですか?」
「ハハハ、もちろん万に一つの可能性でしかなかったですよ。しかしこの身が担う役割の一つは疑うことですので、確かめずにいるのは怠慢だったというだけです。――ああ、もちろん依頼料には危険手当を上乗せしましょう」
二度とこの人は信用しない。
「それに、ジャックの精神状態に不安があるのも事実です。変装スキルは一度剥奪した方がいいという判断は、ちゃんと熟考したうえでのもの。あくまで今日のメインはそちらですとも」
それはまあ、そうだろうけれど。
つまり剥奪前に言っていたことも、適当な嘘っぱちではないのだ。
「さて、そろそろどうでしょうかね。ジャック?」
もう一度グレスリーさんが名を呼ぶ。ハッとしたように彼の目の焦点が合う。
「失礼。自失していました」
その言い回しは笑えないですよ。