軸
「実のところ、自分は困っていないのです」
ジャックさんは背筋を伸ばしてソファに座ったまま、若々しい新兵姿でそう言った。
「自分は任務を遂行するため様々な顔を使い分けて来ました。その結果元の顔を忘れてしまいましたが、そもそももう何年も自分自身であったことはありませんので、不便は感じません」
おおう……。この人すごい。ここまでスキルを日常的に使い続けている人は初めて見た。
たぶんジャックさんのスキルはオンオフができないんじゃないし、完全なパッシブ型でもない。無意識にスキルを使い続けることができるから、結果的にオフの仕方が分からなくなってしまったのだろう。
自然にスキルが使用できるのも考え物だ。
「自分の顔が分からない、ということは、自分がないのと同じことです」
少し離れた場所に座ってもらっているグレスリーさんの声。それは、さっき笑い飛ばしたときと違って少しだけ真剣味を帯びていた。
「容姿とは生まれ持った外面ですが、その人物の人生に多大な影響を与えるものだと考えます。例えば、整った顔をしていれば異性から好意を向けられることが多くなるでしょうし、優しい顔をしていれば人に頼られることが増える。恐い顔をしていれば一般人には避けられ悪い人に絡まれる、ということもあるでしょう」
まあ、言いたいことは分かる。知らない人から不思議とよく道を聞かれる顔、というのはあるものだ。わたしだって道を聞くなら、恐い人には声をかけたくない。できれば誰にだって声をかけたくない。
「そして人はそれぞれ、その顔に準じた役を自ら獲得するのです。異性にモテる人はモテるがゆえに結婚詐欺師になり、優しい顔をしている人は優しい顔をしているがゆえに保険詐欺師になり、恐い顔をしている人は恐い顔をしているがゆえに借金取りになる。そういうものです」
「全部偏見じゃないですか」
「ハハハ、まあそれは冗談ですけどね。ですが、顔がその人の役割を決めることはままあるのです。――そして、どれだけ温和な人物でも軍学校の指導教官を務めれば、それなりに厳しい性格に変化するものですよ」
ええっと……それって。つまり役割が性格に影響するってことだろうか。
さっきの例えは不適切だと思うけれど、優しい顔をしていて、周りから頼られて、優しいことを求め続けられれば、いずれその人自身が優しい人間になろうとする……みたいな話なら分かる気がする。
そして軍学校の教官の話は、優しい人でも役職によっては厳しくなるという一例だ。
それはつまり、人の内面は元々その程度のことで影響されてしまうものである、ということ。
「人の精神は外見や役割に引っ張られることがあるのです。そして、ジャックは老若男女どんな人物でも成れますし、そのたびに演技で人格も変えている。それこそ物乞いから王侯貴族にまでね。アネッタさんはこの危うさが分かりますか?」
「もしかしてジャックさんは、人格的にも自分がどういう人間か分からなくなってます?」
「彼の姿は新兵であるナトリ二等兵のものです。そして今も、ナトリ二等兵らしく振る舞っている。彼が帰国してから、以前のジャックらしさを一度も見たことがありません」
眉根を寄せて、気まずそうに困った表情をするグレスリーさん。ちょっと罪悪感あるんですね。
いや、でも考えたら恐い話だ。どれだけ顔や役割を変えても確固たる芯になり得る人格があれば、自身を見失うことはないだろう。けど自分の顔も分からず、外見と役割に中身を寄せている今のジャックさんに、そんな芯があるって保証はない。
それはなんというか……外見だけ人に寄せただけの、空っぽのなにかを空想させた。
「いやあ、冷血のスキルを失ってからというもの、なんとかしておいた方がいいんじゃないかって問題に次々と気づかされるんですよね。まあだいたい、この身が無視してきたせいなのですが。ハハハ、これも戦争のツケですね」
なに笑ってるんですか。
「自分も、人の心が外見や役割に引っ張られる、というのは分かります。心当たりだってありますからね」
ジャックさんはまだ熱い紅茶を一気に飲み干す。
彼の今の姿は、ナトリ二等兵という人のものらしい。そうグレスリーさんは言っていた。では、そのナトリ二等兵が熱い飲み物が平気なのだろうか。それとも、平気なのはジャックさんなのか。
「ですが自分は誰に変装しようと、この国の諜報員であることを忘れたことはありません。任務も不備なくこなしてきたハズです。問題があるとは思わないのですが」
「ジャックの軸がそこであるのは、上官として誇りに思いますよ」
ああなるほど、そこがジャックさんの軸。つまり諜報員という役柄が根幹にあって、だから自身を保てている。
「ですが、任が解けたらどうでしょう?」
グレスリーさんの言葉に、ジャックさんの腕が空のティーカップをテーブルに置く途中で止まった。
「仕事が生きがい、仕事が人生の軸という人間はいる。そういう人間はいざ仕事がなくなったとき、なにをやればいいのか分からなくなって呆然として、だいたいは多少の自分探しの期間を経て新しい趣味を始めたりするものです。さて、ではジャック、君はどうだろう。君は我が軍所属の諜報員であることを軸にしていますが、もしそれがなくなったらついに、別の誰かになってしまうのではないかな?」
なんだろう。ずいぶんと重い話になっている気がした。そういうのはここに来るまでに済ましてほしい。
というか、もしかしてわたし、すっごい責任重大なことやらされようとしてる? 人一人の人生を左右しかねないような話をしてるように聞こえるのだけれど。
「まあ、そう気負う話ではありません。まだ自分というものを思い出せるかもしれない内に、思い出しておこうというだけですよ。ここにちょうど、おあつらえ向きのスキル所持者もいますからね」
わたしに注目が集まる。
「さて、アネッタさん。あなたのスキル剥奪ならば、ジャックの変装スキルを無理矢理解除できるはずです。やってしまいましょう」
たしかに以前、発動中のスキルを解除したことがある……でも、トルティナのあれはレアケースだから、今回も上手くいくかは分からないのだけど。