スパイのスキル
コン、コン、とノックがあった。
朝のまだ早い時間だ。玄関にかかったプレートを表にして、お茶の用意をして、読みかけの本を開こうとした途中。
思わず居留守を使って本を開いてしまおうかと迷ったけれど、プレートがオープンになっているし鍵も開いてるのでそのまま入ってこられかねない。諦めて本を閉じて、棚にしまってから玄関へと向かった。
「はい、いらっしゃいませ。……あ、グレスリーさん。お久しぶりです」
「お久しぶりですアネッタさん。まさか覚えていらっしゃるとは思いませんでした」
扉の向こうにいたのはいつかスキルを剥奪したおじさまで、彼はニコリと微笑む。
名前と顔を覚えるのは得意だ。人と接するとだいたい一人反省会するから、疲労と共に記憶に刻まれて忘れられない。その眼鏡と剥奪したスキルが珍しかったので、よく覚えてますとも。
「あのときよりずいぶんと表情が自然で柔らかくなりましたね」
「ええ、おかげさまで毎日が比べものにならないくらい色づきました。あなたにはとても感謝していますよ」
「それはよかった。お役に立ててなによりです。それで、そちらのお連れさんは?」
グレスリーさんの後ろには軍服姿の男性がいた。ブラウンの短髪で、男性にしては少し背が低めの彼は、たぶん新人さんなのだろう。ずいぶん若い。
この片眼鏡のおじさまも軍人だった気がするし、最近は軍人さんと縁がある気がする。戦争が終わってしばらくして、彼らも落ち着いてきたという証拠だろうか。それにしても多い気がするけれど、極限状態を戦い抜くために習得したスキルが日常で邪魔になるケースは……けっこうありそうだから、軍人さんのお客さんが軍人さんを連れてくるのは当然かも。
あ、でもこの人は若い新人さんっぽいし、もしかしたら戦争に行っていないかもしれない。もし南部戦線に行っていたとしても新人は後方に配属されそうだから、今回は別件かも。
「ジャックと申します。本日はグレスリーさんの勧めで、自分のスキルを剥奪していただきたく来店させていただきました。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。では、立ち話もなんですから、どうぞ中へ。お茶をお出ししますね」
応接用のソファはジャックさんに座ってもらって、片眼鏡のグレスリーさんには少し離れた場所で椅子を使ってもらう。
本当はグレスリーさんにもソファに座ってもらうのがいいのだけれど、真正面に二人も座って注目されるとわたしの精神が耐えられないので離れてもらった。
ちなみにそれを正直にそのまま言うはずはなく、スキルの使用に集中がいると嘘の説明をしているので、すでに後ろめたくって頭を抱えそう。
「それで、ジャックさんはどんなスキルの剥奪をお望みですか?」
向かいのソファに座って、彼が一口お茶を飲むのを確認してから問いかける。
見たところ彼の様子に切羽詰まった感じはない。封印具もしていないし、精一杯スキルを抑制している様子もない。なんなら緊張しているそぶりすらない。いたって普通に、少しだけ中身の減ったティーカップを低いテーブルに置く。……その表情があまりにも普通すぎて、わたしは違和感を感じてしまう。
なんというか、期待感すらなさそうに思えたのだ。べつにスキルの剥奪なんて、しなくてもいいと考えていそうな雰囲気。
こういう雰囲気を身に纏った依頼者は二人目だ。ちなみに一人目は、すぐそこで美味しそうにお茶を飲んでいる片眼鏡さんである。
「はい。簡単に言えば、変装のスキルです」
変装。ちょっと予想外。軍人さんらしくないスキルだ。小説に出てくる怪盗とか犯人が持っていそうなイメージ。
「それはどの程度の変装ですか? たとえば、別の誰かに完全に似せられるとか?」
「その通りです。試しにやってみてもよろしいですか?」
「ええ、お願いします――」
ジャックさんの申し出に頷く。……その、ほんのちょっとした首の動きの間に目の前の相手の顔が変わっていて、わたしは息を呑んだ。
「あくまで身体系習得スキルなので服装や片眼鏡までは無理ですが、どうでしょう。グレスリーです」
「えっと……身体系ですか? 魔法系ではなく? あと天恵や覚醒、進化でもなく習得?」
ほんの一瞬前までは若い軍人さんだったのに、そこにいるのはどう見ても細身の中年男性で、グレスリーさんだった。
年月の刻まれた肌、髪型や身長を含む体型、雰囲気すらも新人から歴戦の軍人さんへと変貌を遂げている。明らかに骨格まで違う。
これが身体系? これほどの変化を一瞬で完了させるなんて、骨が軋む音すらたてないなんて、目の前だったのに見逃すほどの速度と自然さは驚異だ。身につけるのにどれほどの修練を重ねたのだろうか。
「身体系習得スキルですね。以前は顔の印象を少し変える程度だった気がしますが、使用しているうちにこのように」
「声帯まで変わっているようです。かなりの高ランクスキルではないですか?」
「ええ、だから困っています」
その声は向かいのソファからではなく、少し離れた椅子の方から。
まったく同じ声だから混乱しそうになるけれど、本物グレスリーさんだ。
「ジャックは呼吸するのと同じように変装スキルを使用できます。また、一度会って話した相手ならば完璧に模倣することができるのです。もはや変装ではなく変身スキルと呼んでしまってもいいですな」
「なるほど、本当にすごいスキルですね。……もしかして剥奪したい理由は、悪いことに使えてしまうからでしょうか」
そういう依頼は以前もあった。対象はこの国の王女セレスディア・エルドブリンクス様という大物中の大物だったので忘れられない。
「いえいえ、彼は悪いことをするのが仕事なのでそれはいいのです。むしろとても優秀で役に立ってますよ」
片眼鏡のグレスリーさんが首を横に振る。……いや、それは犯罪者ってことではないか。
「平たく言えば、自分はスパイです。他国で諜報活動を行うことを任務としていました」
若々しい声に振り向くと、向かいのソファにはまた最初の若い男性が座っていた。ちょっとホラーだ。
というかスパイって、わたしなんかが知っていいの?
「詳細は軍事機密として伏せさせていただきますが、彼は変装のエキスパートとしてスパイ活動を行ってきました。しかし最近はかなり情勢が安定してきたので、一旦その任を解き帰国させたのです」
グレスリーさんが横から補足してくれる。……あ、伏せるところは伏せてくれるんだ。じゃあ話してくれているのは、聞いても大丈夫なところまでか。
変装スキルを持っているという時点で、ジャックさんがスパイであることはいずれ推測できただろう。だからそこまでは出して来た。でもそれ以上は言わないぞと。うん、ちょっと安心。
「しかし帰国したジャックは、どうやら元の自分の顔というものをすっかり忘れてしまったようでして。いやぁ、便利な人材だからといって、ちょっと酷使しすぎましたな。ハッハッハ」