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風待つ朔  作者: 丹寧
第一部 風読 月夜見
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五 高良彦

 なぜ大王は、弟の帰る刻限がわかるのだろう。夕星の疑問をよそに、大王は脈絡なく尋ねた。


「風の女神級長戸辺(しなとべ)は、母神が朝霧を吹き払った風から生まれたという。朝霧という名で暮らすのはどうだ」


 夕星は白露にすら名前を伝えていなかったが、そんな警戒を見透かされているのだろうか。さらに級長戸辺の話を持ち出すなんて、夕星が風読と知っているかのようだ。


 どう答えたものかわからず、夕星は感想だけを口にした。


「――美しい名のように思います」


 ふと頬を緩めて、大王は厳かな笑みを浮かべた。


「なかなか用心深いな。秋津洲からここまで辿り着けたのも頷ける」


 ようやく夕星は、大王が自分を試したことに気づいた。夕星が級長戸辺の裔と知っていて水を向けたのに、何も明かさなかったことを誉めたものらしい。


 会ったばかりの相手の出自を知っているなど、ありえない。だが特異な存在感を持つこの女には、尋常ならざる力が具わっているのではないか。彼女が最高位の巫女にして大王の地位を占めているのもそのためなのではないか。


 衣の下に隠した短剣が重く感じられたとき、巫女長が立ち去っていったほうから物音がした。何者かが、外廊を速足に歩いてくる。別の誰かがそれを小走りに追っていた。


「恐れながら、お目通りの前にお召し替えを――」


 遠慮がちにそう諫める若者に、低く朗々とした男の声が答える。


「構わん。大王はいちいち気にせん」

「しかし――」


 言い募る若者を、男が遮った。姿が見えない声は実によく通る。


「すぐに来いと呼びつけたのは大王だ。大人しく従って何が悪い」

「はあ」


 納得いかない様子ながら、若い声は足を止めた。そして、一組の足音だけが近づいてきたかと思うと、逞しい体躯をした長身の男が広間に姿を現した。


 浅黒い肌、黒い髪に濃い眉と迫力ある相貌が若々しいが、歳の頃は三十すぎだろうか。なめらかな生地の(きぬ)(こん)に、鮮やかな赤の足結(あゆい)手結(たゆい)が映えている。腰には長い剣を佩いたままだ。


 男は夕星をみとめて瞠目したが、すぐに大股で歩み寄ってきた。遠慮のかけらもない立ち居振る舞いから、この男が王弟の高良彦と直感する。


 御座の前までやってきた高良彦は、夕星を隅から隅まで眺め回した。眉根を寄せ、顔を顰めていたが、後々それは相手を値踏みするときの表情なのだとわかった。両の目には姉と同じ、強い余韻を与える力が宿っている。


「なるほど、これは婆殿(ばばどの)なしで話をするべきだな」


 ひとり納得したように呟くと、高良彦は大王に向き直った。


「俺の知らぬ間に客を招き入れるとは、どういうことだ」

先見(さきみ)の力に告げられて、只人ならざる娘が現れると知った。あいにく其方が発った後のことだった」


 先見という言葉を、夕星は反芻した。大王は、先に起こることが見通せるらしい。だからあの宵、夕星が現れることを知っていた。弟が間もなく帰ることも。


「この娘はどこから湧いて出たのだ――智鋪の只人ならざる者は大抵顔を知っているが、見覚えがない。まさか熊襲国から転がり込んできたのか?」


 鋭い眼光で見据えられ、夕星は咄嗟にかぶりを振った。


「いいえ。秋津洲より参りました」


 聞くなり高良彦は大きく眉を顰めた。


「いったい何をしに――間者として放たれたとでも?」


 後半はひどく強い語調だった。大王が横合いから取りなした。


「それをこれから訊くところだ」

「ならば俺も聞かせてもらう」


 言うなり高良彦は、床板に胡坐をかいた。


 とんでもないことになった気が、夕星にはしていた。この高良彦という男は、見るからに血の気が多そうだ。最も身近な男性が朱鷺彦だった夕星には、落ち着かないことこの上ない。


 戸惑いを見透かしたのか、大王が宥めるように言った。


「楽にしていてよい。長い話になるであろうから」


 そして、ごく当然のように付け加えた。


「連れの者も、気兼ねなく聞くが良い」

「連れ?」


 高良彦が首を傾げた。


「どういう意味だ。ここにいるのが、この娘ひとりでないと言うのか」


 どう見てもひとりでしかない夕星を、高良彦は無遠慮に眺め回した。大王の牽制と高良彦の視線に、夕星はただ身を縮こまらせていた。まさか葉隠の存在も見抜かれるとは。


「聞けばわかる。――話してくれるね」


 しばし逡巡した夕星だったが、なすすべもなく頷き、口を開いた。何を隠しても見抜かれる相手に、抵抗は意味をなさない。


「私は、秋津洲は科戸国の生まれにございます。風の女神級長戸辺(しなとべ)(すえ)として、郷里の国長を務めておりました」

「科戸とは」


 高良彦に尋ねられ、夕星は答えた。


「風神の裔が治める里と、月読の神の裔が統べる里の寄り添う小さな国です」

「なるほど。そなたの命に枷をかけたのは、級長戸辺でなく月読の神だね」


 大王には何もかも見透かされている――この身について回る、呪いのことすらも。凪ぎ切った日向大王の面を見据え、夕星は静かに答えた。


「かつて月読の嗣が、風読の娘にねだられた神宝(かむたから)を与えようとしました。幼い恋情のために神宝を弄ぼうとした行いに月読の神が激怒し、私に至るまでの呪いをかけました」


 高良彦が片眉を上げ、怪訝な目つきをした。夕星は続けた。


「風読は、葦原中(あしはらのなか)つ国に唯一人しかいられません。すなわち級長戸辺の娘は、自身の娘が産声を上げると同時に命を失います。私の母も、私を(かいな)に抱くことなく絶命致しました」


 ゆえに風読は長くても二十年(はたとせ)ほどしか生きない。大した知恵もつけないまま若くして死んでしまうので、実質的にはその父か夫が国を束ねた。


 生まれた赤子が風を読めるようになるまで待たねばならないので、実際に務めを果たせる年月は限られる。それにも関わらず、突如その力を欲しがったのが出雲だった。


「ひと月ほど前、東の隣国である出雲国が、風読の力を求めて参りました。彼らは私を引き渡すよう遣いを寄こし、拒まれるとすぐさま火攻めを仕掛けた。大国の軍勢になすすべなく科戸は滅び、私は西へと落ち延びました」

「出雲はそなたの力も、そなたの国も手に入れようとしたわけか」


 高良彦に問われ、夕星は頷いた。


「私に娘を産ませれば、それが叶いますゆえ」


 子を産めば息絶えることは、明かさないつもりだった。何にもましてままならない自分の弱点だからだ。そのすべてを見抜いた大王に向かって、夕星は続けた。


「出雲の追っ手は、穴戸関(あなとのせき)までついてきておりました。筑紫洲に渡ってからは途絶えましたが、その後も生きられる場所を探して彷徨い、この館に辿り着きました」

「そこで婆殿に招じ入れられたというわけか」


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