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風待つ朔  作者: 丹寧
終章 埋もれ木の
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二 朔夜

 どちらからともなく、並んで腰を下ろした。朔夜は戸惑っていたが、もう怖がってはいないようだった。


「今は鷹彦と呼ばれています。貴女からは、違う名で呼ばれていましたが」


 朔夜はそう、と静かに答えた。


「貴女のことは、かつて夕星姫と呼んでいました」

「夕星」


 舌の上で言葉を転がすように、朔夜は呟いた。


「朔夜という名を、なぜ名乗ったのです」

「南へ向かう時の空に、朔が見えたから」


 奇しくも月の名前であることに、鷹彦は何を思えばいいかわからなかった。


「その前のことは、憶えていないのですか」


 朔夜は困ったように目を伏せた。その目元が不意に艶やかに見え、どきりとする。


「三人のおのこを産んだことは憶えている。でも、他のことは何も」


 夕星姫だった頃のこと――国長だったことも、月読の護りの主だったことも、すべて忘れている。その事実が鋭く胸を衝いた。こうしてふたたび巡り会ったのに、何ひとつ分かち合うことはできない――胸に吹き荒れる狂おしいほどの愛おしさも、喜びも。


 自分と別れてから、何があったのだろう。恐ろしい思いをしなかっただろうか。彼女を独りにしてしまったあいだに、どれだけの苦難に耐えさせてしまったのか。


「何か?」


 黙り込んだ鷹彦を、朔夜が覗きこむようにした。知らないうちに伏せていた顔を上げ、鷹彦はかぶりを振った。


「いいえ――貴女が生きていて、よかった」


 何はともあれ、朔夜が中つ国にいることを喜ぶべきだ。本来は望むべくもなかったことなのだから。


「里で助けてもらえたから」


 朔夜が言うには、七滝と思しき若者が行き倒れた彼女を看病してくれたらしい。何日か経ったところで、彼に隼人の村へ連れて来られたという。置いて行かれたのは津奈木に近い村だったが、たまたまそこを訪れていた阿多の奥方が、朔夜を連れてきた。


 熊襲にはない訛りがあり、右腕に矢の古傷がある。只人ならざる目を持っている。微かな手掛かりと、自分の語ったこととを結び付けてくれた奥方に、鷹彦は感謝した。


 朔夜が続けてぽつりと言った。


「でも、これからどう暮らして行ったらいいかわからない。私は人の役に立てることが何もないから」

「風をお読みになれるでしょう」


 驚いた鷹彦が言うと、朔夜は目を瞬いた。


「奥方も同じことを言っていた。なぜだ?」


 鷹彦のほうもその問いを返したかった。どういうことだ、とふたたび思ったとき、ひとつの考えが頭に浮かんだ。


 風読は、中つ国に一人しかいられない。だから新たな風読が産まれるたび、母となった風読は命を落としてきた。それは母が風読でなくなれば、生きていられるということではないか。


 ありえないことではない。勾玉を還されたとき、雷で打たれたような衝撃が身体に走った。誰でもない声が脳裏に響き、風読と月読ついに並び立てり、と告げた。級長戸辺の娘を経て月読の兄から弟へ神宝が渡ったことで、呪いは終わりを迎えたのではないか。だから自分は、身体を取り戻せたのではないか。


 だとしたら、風読への呪いも解かれていておかしくない。


「長い話になりますが――お聞きになりますか」


 朔夜はうなずいた。鷹彦は淡々と耳を傾ける彼女に呪いの謂れと、それが解かれたと思う訳とを語った。


 上古、自身の虚栄心のために、月読の嗣が勾玉を風読の娘に与えようとした。それが神の怒りをかって、呪いが始まったと言われている。嗣は双子の兄弟と、風読の歓心をめぐって争っていた。だから兄が弟と、月読が風読と並び立てるようになるまで、呪いがかけられたのだろう。


 朱鷺彦は勾玉を夕星に託すことで、死ぬはずだった鷹彦を救った。その時点において兄と弟は並び立ち、夕星が鷹彦に勾玉を還したことで、月読と風読も並び立った。


「勾玉は今どこに?」


 尋ねた朔夜に、鷹彦は首元の衣の下から、糸に通した勾玉を取り出してみせた。朔夜はしげしげと、白く透き通った玉を眺めた。


「とても綺麗だ」

「ええ」


 鷹彦は糸を握った手を膝の上に置いた。


「かつて私は、貴女に護りとして仕えていました。兄亡き後、貴女が私の主となったから」


 朔夜の髪が、海風に吹かれ靡いている。鷹彦は続けた。


「でも今は主であろうとなかろうと、貴女のそばにいてお護りいたします」

「なぜ?」


 不思議そうな顔をした朔夜に、鷹彦は小さく苦笑してみせた。


「私がそれを望んでいるからです」


 意味するところが、どれほど伝わったかはわからない。しかし朔夜の頬には朱が差し、恥じらうように視線を伏せた。


「今日から阿多で暮らせばいい。奥方に言えば、計らってもらえるでしょう。幸い私は潮読みの務めがある」

「潮読み」


 繰り返すように呟いた朔夜に、鷹彦は目で勾玉を示した。


「月読の勾玉の持ち主は、潮を読むことができます」


 隼人の何人かが勾玉を持ってみても、潮の流れはわからなかった。不思議な力は、神宝の主にだけ具わるものらしい。


「万の神の裔を助けると聞いたこともありますが、どういうことかわかっていません」


 かつてその力で風を呼んだことも、夕星は憶えていないだろう。そう思って、鷹彦は簡単に言うにとどめた。


「でも私は――貴方のことを何も知らない」


 躊躇いがちに言った朔夜に、鷹彦は言った。


「これから知っていただければいい。貴女が嫌でなければ」

「そんなことはない」


 ゆるくかぶりを振った朔夜に、鷹彦は微笑した。寂しい思いは努めて抑えたつもりだったが、面に滲んでしまったかもしれない。


 鷹彦は立ち上がり、朔夜に手を差し出した。


「行きましょう。奥方に話をしなければ」


 朔夜は頷き、彼の手を取った。柔らかな指が逞しい掌に包まれたとき、白い勾玉が朔夜の肌に触れた。





 鷹彦が先に立って歩き出しても、朔夜はその場に棒立ちになったままだった。


 月読の勾玉が手に触れた刹那、失われていたすべての記憶や思いが蘇り、胸の中になだれこんできたからだった。


 故郷を離れた夜、落ち延びた先の智鋪、日向大王、熊襲への出奔、葉隠との別離、火中での出産――すべてが入り混じって心を席巻したのは、ごく短いあいだだったと思う。鷹彦と名乗った彼は、ほんの数歩しか進んでいなかったから。


 再会に焦がれた相手が、目の前にいる。そう思うと今度は、温かな何かが胸の奥に広がっていく。久しく感じることのなかった、強烈な安堵と喜びだった。


 それをすぐに伝えたくて、朔夜は急いで唇を開いた。


 ああ、でもどうしたらいい。何もかも思い出したと、ふたたび逢えたことがどうしようもなく嬉しいと、伝えるだけの言葉を朔夜は持たなかった。


 代わりに口を突いたのは、ひとつの名前だった。朔夜も、阿多の隼人も知らない――かつて彼とともにいた、ただ一人だけが知る名だ。


「――葉隠」


 声は潮風に乗り、彼の耳に届いた。驚いたように足を止めた鷹彦は、やがてゆっくりと朔夜を振り返った。


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