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風待つ朔  作者: 丹寧
終章 埋もれ木の
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一 阿多

 ゆるやかな海風のなか、鷹彦は丸木舟から汀に降りた。足に触れる潮水は冷たく、風も強さを増している。波が荒くなる冬までに、あと何回漁に出られるだろう。


 潮読みとして舟に乗るようになって、一年近く経つ。隼人はやとの素朴な暮らしは、いくらか戸惑うほど彼の肌に合った。権謀術数も、戦もない。漁撈や耕作の静かな営みが続く阿多あたに、もっと前から住んでいたような気さえする。


 鷹彦は仲間とともに、漁網を負って運んだ。網に空いた穴を女たちに繕ってもらうためだ。背後では舟を浜に揚げた男たちに、子どもらが駆け寄っていく。獲れた魚を山分けし、家に持ち帰るためだった。


 作業場に着くと、そわそわした様子の若い女が鷹彦に駆け寄ってきた。


「お待ちしておりました。貴方様に会いたい方がいるとかで」


 日に焼けた女の顔を、鷹彦は凝視した。


「長でしょうか」


 阿多の長はこのところ、しきりに自身の娘と鷹彦を娶せようとする。潮読みの彼を一族に引き入れたいからだとわかっていたので、できる限り会うのを避けていた。


「違うのです。長の奥方が、北から客人があったと」


 奥方は鷹彦を婿にしようとは思っていない。だからこそ彼には、何の用事もないはずなのだが。


「客人とは?」

「詳しくは何も。でも、急いで来てほしいと」


 戸惑い気味に彼女は言った。鷹彦はすぐに長の館へ向かった。

 鷹彦とは、身体を捨てる前の名だった。球磨から逃れ、隼人の地である阿多へ辿り着いてから、その名をふたたび使った。阿多の里に葉隠という名を知る者はない。


 あの夜、今わの際で台与に話しかけられた後のことは、憶えていない。気づいたときには傷の治った身体で、同じ場所に倒れていた。目覚めるまでにひどく長い――何年も智鋪に仕えたかのような――夢を見た気がする。中身はまったく思い出せなかったが。


 そのまま南へ逃げ、阿多へ流れ着いた。以来、勾玉で潮読みをしながら暮らしてきた。


 北からの客人とは、熊襲の何者かがやって来たのだろうか。しかしそれならそうと告げるはずだ。だいいち、奥方ではなく里長自身が言って寄こしてくるだろう。


 思案するうち、長の家に着いた。漁網を干していた奥方は、彼の姿をみとめて歩み寄ってきた。もうすぐ四十に手の届く恰幅のいい彼女は、貝輪をつけた手で鷹彦を手招きした。


「あんたに会わせたい人間を連れて来たんだよ」

「熊襲の何者かでしょうか」


 それはないだろうと思いつつ、鷹彦は念を押した。奥方はあっさりと首を振る。


「こんな奥まったところまで、わざわざ追ってこないさね。それに誰なのかも、正直なところよく分からないんだよ」


 言って奥方は、渚へと歩き出した。意味を取りかねつつも、ひとまずついていく。


「何と言ったらいいか。熊襲に近い里に、こないだ鳶色の目をした男が現れたらしいんだけど」


 鳶色の目の男に、心当たりはひとりしかない――七滝だ。


「何をしているか訊こうとしたら、連れを置いて馬で去ってしまったという。その連れは帰るあてがないと言うから、里で迎えてやったらしいんだ。話を聞いてみると、あんたの知り合いじゃないかって気がしてね。一緒に連れて帰って来たんだよ」


 鷹彦は我知らず眉を顰めた。七滝が連れてきた、自分が知っているかもしれない相手といえば、それは――


 渚に着いた奥方は、砂と草原の境に座る女を指さした。齢四つの彼女の息子とともに、海のほうを向いている。遠い横顔を見ただけでも、間違いなく夕星とわかった。


 智鋪でしていた垂髪でも、熊襲での色紐を編み込まれた髪でもなく、隼人の女と同じように髪を後ろで結い上げ、まとめている。それが落ち着かないのか、後ろ髪に手で時おり指で触れていた。すると鷹彦たちが近寄っていくあいだに、髪は解けて広がってしまった。


「またほどけちゃった」


 奥方の子が、咎めるように言うのが聞こえた。夕星は柔らかに苦笑した。何年も見たことのない、穏やかな笑顔だ。


「この結いかたが、どうしても落ち着かないから」


 子どもと話す夕星の目は、どこまでも優しい。鷹彦は自分の胸までもが温かく解かれていくのを覚えた。


「私の、かつての主です」

「そうかい。やっぱりね」


 奥方の心配そうな声音を気にもとめず、鷹彦は速足に彼女へ近寄った。


「夕星様」


 久しぶりに夕星を食い入るように見つめた。間もなく怯えたような色を相手の顔に見て取る。突然立ちはだかった男に彼女は困惑し、慌てて立ち上がった。


「私は――」


 何から説明しようかと視線を落とした時、大きく膨らんだ夕星の腹部に目が留まり、絶句した。彼女は身籠っている。


 半分怯え、半分様子を窺うようにして、夕星は彼を見ていた。まるで、見知らぬ相手が危険でないか確かめるように。奥方が気づかわしげな口調で説明を添えた。


「どうやら、子どもを産んで間もないようなんだよ」


 どういうことだ、と自問する。彼女は、子を産めば生きていられないはずではないか。


「あらかた元気になったようだけど、お腹は戻ってない。三人産んだと言ってるから、しばらくかかるだろうね」


 夕星に宿っていたのは、鞠智彦の子だろうか。そうだという気がした。


 棒立ちになる鷹彦の前で、奥方の末息子が夕星にしがみついた。彼女がその小さな肩を抱えるようにする。


「それ以外は何も憶えてないらしい。名前を聞いたけど、あんたが言ってたのと違うし。だから、確かめてもらうために呼んだんだよ」

「――名前は」


 茫然と尋ねると、彼女はぽつりと答えた。


朔夜さくや


 当惑した鷹彦に向かって、夕星は付け加えるように言った。


「前の名は憶えていない」


 立ち尽くした彼を心配そうに見やって、奥方は尋ねた。


「二人で話したいかい」

「ええ――できれば」


 鷹彦が頷くと、奥方は末息子に向かって手を伸ばした。


「行こう。朔夜は鷹彦と話があるから」


 男の子は気が進まない顔をしたが、母親の手を取った。奥方が朔夜に言った。


「お前のことを知っているという者なんだよ。何かわかるかもしれないから、二人で話してみなさい」


 恐る恐るというふうにうなずいた夕星を、鷹彦はあらためてまじまじと眺めた。体格の他は、何も変わらないように見える。黒く強い光を持つ瞳も、儚く憂いのある口元も。


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