二十五 鳥飛
途方に暮れて立ちすくむ馬を七滝が見つけたのは、温かな秋雨の日だった。
その日は猟の後、村人と分けた鹿肉を抱え、村のはずれの庵に戻ろうとしていた。庵の主である老人が待ちかねているだろうと、速足で歩いていた。
木の葉が落ち、森の見通しがよくなるこの時期は、猟が本格化する。豊富な木の実で獣たちも肥える。村の住人たちは好んで罠を使ったが、七滝は弓矢で獲物を仕留めることが得意で重用されていた。よく猟に呼ばれたし、獲物が出れば良い部位を分けてもらえた。
鹿の重みがひときわずっしりと肩に食いこんだとき、珍しい音を聞いた。馬が鼻を鳴らしていた。
球磨を離れて以来、馬を見たことはない。思わずあたりを見回すと、道から分け入った木立に揺れる尾が見えた。七滝は荷を負ったまま道を外れ、馬に近づいた。
手綱や鞍、それに鐙をつけられた見事な馬だが、ひどく疲れた様子だ。馬具の造作には見覚えがある――渠帥者の館のものだ。脇に倒れ伏している者もまた、知った顔だった。
「――朝霧姫」
血まみれの衣を羽織り、朝霧は濡れた地面に倒れていた。ひどくやつれているが、確かに彼女だ。しかし揺すっても名を呼んでも目を開かない。首の拍動はひどく弱い。
日嗣の巫女が言ったことが蘇った。いつか朝霧を助けられる日が来る、と。
兄を助けるためとはいえ、朝霧姫を追いこむことは心が痛んだ。彼女としてもやむなく熊襲にやって来たのだから。
それで台与に訊いたことがある。かつて身近にいた彼女をなぜ追い詰められるのか、と。台与は、いつか七滝は彼女を助けることになる、と言った。いま朝霧を苦しい目に遭わせても、それを贖える日が来るから、と。
詭弁だと思った。まさか本当に、ふたたび会う日が来るとは。七滝は鹿を馬の背に置き、四苦八苦して朝霧の身体も馬上に押し上げた。手綱をひき、庵までの道を戻る。ここに辿り着いて以来、七滝を庵に住まわせてくれている老人は、見知らぬ女を見て仰天した。
「お前が来てから、まったく落ち着かない」
憎まれ口を叩きつつも、彼は朝霧の冷え切った身体を温めるため、火を焚いてくれた。老人は妻を亡くして以来、村はずれの庵で暮らしていた。七滝を受け入れたのは、静かな暮らしが寂しく感じられてきたからなのか、単なる気まぐれなのか、よくわからない。
七滝は地面を掘り窪めた清潔な土間に薦を敷き、朝霧を横たえた。けががないか確かめようと血みどろの長衣を剝いだとき、彼は息を呑んだ。
朝霧の腹部は大きく膨らんでいた。足にはところどころ、胞衣の残骸と思しき血の塊がついている。黙っていると、何事かと老人が尋ねてきた。
「お産のあと、ここまでやってきて行き倒れたようです」
驚き冷めやらぬまま七滝が呟くと、老人は顔を顰めた。
「村の女を呼んでやろう。具合を看てやるのに、俺たちでは心許ない」
七滝は頷いた。頬に手を当ててみると、身体はわずかながら熱を取り戻しつつある。小さく呻いたので、甕から椀に汲んだ水を口元に運んでやった。意識は定まらないようだが、とりあえず水は飲んでくれた。
七滝は村に行き、五回お産をしたという女を連れてきた。朝霧の身体は温まったものの、今度はひどい熱が出ていた。
「一体何があって、こんな有様でここまで?」
女は仰天しながら朝霧の身体を拭い、重湯を飲ませた。
「わからない。森で行き倒れていて」
「産んだばかりで、悪露も終わってない。まだ産屋で大人しくしてなければならない時期だよ」
ため息をついた女は、水と重湯を欠かさず与えるよう、七滝に言い渡した。そして明日も様子を見に来ると言ってくれた。七滝は、涼しい空気が通る土間の隅に朝霧を移した。
数日経つと熱は峠を越え、朝霧は起き上がれるようになった。重湯以外のものも口にできるようになると、もともと只人ではないためか回復は早かった。
だが、すぐに七滝は異変に気づいた。球磨で見た朝霧と、何もかも違っている。戸惑いながら世話を続けていたある日、庵の近くの立ち木に烏が止まった。こわごわと眺めていると、案の定、開いた嘴から人語が聞こえた。
「久しぶりね」
あいかわらず溌溂とした声だったが、七滝は喜んで返事をする気にならなかった。今度はどんな無理難題を押しつけに来たのだろうか。
「貴方に最後の命を告げに来たわ。朝霧はまだ、ここにいる限り安全と言うわけではない」
確かにここは熊襲の領内である。鞠智彦が本気になれば、探し出されてしまうかもしれない。それは七滝自身にも言えることだったけれど。
「級長戸辺の娘を、ある場所へ連れて行ってほしいの」
七滝はうなずいた。どのみち日嗣の巫女がそうと決めたら、抗う術はなかった。




