二十四 選択
三人目も果たして男だった。朦朧とした頭で産声を聞きながら、夕星はまたも同じ問いを抱いた。なぜ自分はまだ、生きているのだろう。風読は、葦原中つ国にただ一人しかいられないはずなのに。
燃えるものが尽き、衰えつつある炎を見渡しながら、夕星はぼんやりと思った。風が欲しい。押し寄せる熱波を吹き払うような風が。
思った刹那、異変に気づいた。天上のひと吹きまで感じられた風の気配が、わからなくなっている。何里先でも風向きを感じ取れたのに、今は遠い空とのつながりがふっつりと途絶えてしまった。
自分は風読ではなくなったのか。産まれた子どもが風読の力を受け継いだのなら、今も中つ国に風読はひとりだ。――だから長らえたということか。
「生きているのか」
不思議そうにこちらを見ながら、螺良が尋ねた。無言でうなずいた夕星の前で、螺良は三人の子どもをいちどきに腕に抱えた。産まれたばかりのひとりは泣いているが、先に産まれた二人は疲れたのか寝入っていた。
「この子は火照」
最初に産まれた子に螺良が言うと、夕星の胸を痛みが衝いた。名づけは子らと螺良を結びつけ、夕星とは切り離そうとしていた。
「この子は火須勢理」
炎の燃え盛る様子から取った名を、螺良が口にした。軻遇突智の息子の名として、これ以上相応しい名はない。
「この子は火折」
最後、炎が収まりかけた頃に産まれた子を、螺良はそう呼んだ。火影に照らされた顔は穏やかだった。
「火の軻遇突智の息子たちは、私が育てる。心配するな」
愛おしそうに子らの顔を眺めながら、螺良が言った。唇を噛みしめた夕星の手は、なぜかひとりでに子どもたちに伸びた。だが、気付いた螺良が強く言い放った。
「ならぬ」
どこかでそう言われることをわかっていた。ふらつく頭を押さえながら、夕星は目を閉じた。
「其方は私から夫の心を奪った。この子らの母になる役くらいは譲れ」
螺良の訴えはもっともだった。子どもたちと自分の身体が分かたれたいま、唯一自分に期待されていた役割は終わったのだ。
「火の神の裔として、何にも困らぬよう計らう」
子らを抱く腕に力を込めた螺良の顔に、嘘はないと思えた。
「ええ――どうか」
火折の激しい泣き声を聞きながら、激しい悲しみと同時に、なぜか胸に温かいものが広がっていった。子の産声を生きて聞けることがあろうとは。子らを螺良に託し、自分にはもう護るべきものはない。けれど、生きていることがどうしようもなくありがたかった。たとえすぐに燃え死ぬ定めであっても。
螺良が殯屋を見渡した。火の勢いは衰えかけているが、壁はほぼ全面が炎に包まれている。建屋の裏側の壁は特に火のまわりが早く、燃えさしと化した壁が崩れかかっていた。
螺良もまたあたりを見回すと言った。
「其方は逃げよ。いまなら殯屋の表に人が集まっているだろう。裏から出て、厩から馬をくすねて出て行くがいい。身体は辛いだろうが、私が助けてやれるのはここまでだ」
螺良は燃え落ちた壁を目で示したけれど、夕星はかぶりを振った。
「逃げようとすれば、まじないの色紐が燃えます」
色紐はいつも梓が付け外ししていた。逃げたり、自分で外そうとしたりすれば燃える。だが螺良はゆっくりとかぶりを振った。
「阿蘇津彦様が生きていたときまでは、そうだった。だがもう、ただの紐だ。其方の真の名がわかれば、話は違ったろうけれど」
驚きに言葉が出てこなかった。朝霧という仮の名が、また自分を守った。
「私にも軻遇突智の血が流れている。火のまじないが生きているかどうかくらいはわかるのだ。ついでを言えば、阿蘇津様から贈られた衣がなくても、火の中で死なない」
「そうだったのですか」
螺良は肩を竦めて言った。
「あまりに得意げに贈ってくださったから、お伝えしそびれた。その衣は其方が火を通り抜けるときに被っていくとよい」
言って螺良は、踵を返した。その後姿を見て、これが彼女と話す最後になると思い知る。
「――ありがとうございます、螺良様」
「言っただろう。私が先に命を助けられたからだ。それに、私が取り上げたのは其方の子ではなく、火の神の息子たちだ」
相手には見えないとわかっていながら、夕星はうなずいた。
「私の名は――」
「言うな」
かすれた声を、螺良が遮った。
「阿蘇津彦様以外にも、多少のまじないを心得る者がいる。知ってしまったら、その者たちに其方の名を伝えざるを得ない。私は、渠帥者の妻だから」
その助言は、意外なほど素直に心に染みとおっていった。
「――はい」
不思議なことに、夕星はまた生きるつもりでいた。ならば名前は隠したままでなければならない。このまま焼け死ぬ方が労せずしてできるだろうに、なぜだろう――燃え落ちた屋根から、月が見えたからだろうか。毅然と自分を助けてくれた螺良に、背中を押されたからだろうか。
奇妙な確信だけがあった。呪いは解け、色紐の軛もない。ならば、できることがある。いつも智鋪や熊襲の思惑に従い、行動を起こせなかった自分にも。
結局のところ自分は、葉隠や彼の兄がつないでくれた命を本当に生きることが、これまではできていなかったのだと思う。死を受け入れるつもりだった自分を科戸の外に逃れさせ、危険を厭って大国の言うことをただ聞いていた自分の背中を押してくれた、その葉隠の意志に応えられていなかった。
護るものをすべて喪ったいま、ようやく夕星は自らの行き先を自分で決める覚悟ができたのだった。子どもたちは螺良が護ってくれる――ならば。
ばらばらになりそうな身体で、どうにか立ち上がった。螺良が腰の下に敷いてくれた衣を広げ、頭から被る。衣は血で紅一色に染まっていた。その暗い色が、身体を宵闇に隠してくれた。
厩には誰もおらず、折よく馬具をつけたまま途方に暮れている馬を見つけた。誰かが慌ててしまったのか、鞍も鐙もそのままだ。
足腰の激痛に耐えながら、騎乗した。馬はしばらく渋る様子だったが、最後には何とか大人しく歩き出した。揺れるたびに身体が痛んだけれど、どうにか館を出た。衛士たちは皆、火消しに駆り出されたのかいなかった。
夜の球磨の都を、ひたすら進んだ。まともに働かない頭で馬首を南に向けたのは、その空に白い朔が浮かんでいたからだった。




