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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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二十三 出生

 ちょうど痛みの合間に現れたその者は、赤と橙の塊のように見えた。頭から被っていた豪奢な衣が放られると、久しぶりに見る姿が現れ、夕星は唖然とした。


 絶句する夕星をよそに、燃え盛る扉を素手で閉めた彼女は、手に持っていた棒で戸が開かないよう閂をした。


「――螺良様」


 螺良はまっすぐに夕星のもとへやってきた。途中、床板に放った衣を拾う。いつぞや阿蘇津彦から贈られた、まじないの衣だ。表情は静かだった。腰帯に挿された短剣を見て、夕星は思わず後ずさった。


 自分を憎んで然るべき人物が、武具を持って現れた――目的はひとつしかない。


 何かを言おうと口を開いたとき、また激しい痛みが襲った。呻き声をあげた夕星の脇に螺良がひざまずき、夕星の腹に触れる。注意深く何か探っているようだった。


「聞け、朝霧」


 呼吸もままならない夕星に、螺良は恬淡と言った。


「其方の子はひとりではない。二人いる」


 言われた意味がわからず、夕星は螺良を凝視した。静かな黒い瞳が続ける。


「だからお腹が大きくなるのも、産気づくのも早かった。梓から聞いてそうではないかと思っていたが、やはりな」


 初めて螺良に会ったときのことが蘇った。彼女は里人のお産を手伝って降灰から逃げ遅れたのだった。


「一度では終わらない。大変なお産になるが、よく言うことを聞け」


 励ますように背中をさすった螺良に向かって、夕星はうなずいた。うなずき返した螺良は、夕星の足元へ向かった。裳を持ち上げて様子を確かめたとき、軽く目を瞠った。


「何か」


 ただならぬ様子に、背筋が冷える。今までずっと、風読の娘は死産や早産にならず産まれていた。よりによって、一体ここで何が起こるというのだ。

 螺良が緊張した声で言った。


「逆子だ」


 混乱し、呼吸が乱れた。夕星の動揺を見て取った螺良が声を高くする。


「慌てるな。焦ってはならない」


 言い聞かせるようでもあれば、叱責するようでもあった。


「いままでいきまなかったか」


 かぶりを振ると、それで良い、と言うように螺良は頷いた。殯屋へ入るときに被っていた衣を折りたたむと、夕星の腰の下に入れた。


「まだ我慢しろ。赤子の手足が千切れてしまう。身体が出てきたら、私が取り出してやる」


 激痛がまたも襲った。産道を広げながら降りてくるものの感触に、夕星は悶絶した。


「大丈夫だ――足はもう見えている」


 励ますように螺良が言った。今度はうなずくこともできなかった。





 足から降りてきた赤子を、螺良が取り上げた。産まれてきた子は手も足も無事で、螺良が衣の糸をちぎって臍の緒を縛り、短剣で切った。そのために刃物を持って来たのだとようやく悟る。


おのこだ」


 螺良が驚いたように言った。夕星も信じられなかった。級長戸辺の裔は呪いを負って以来、例外なく女子だった。ならば二人目に娘が産まれるということか。


 螺良は懐に忍ばせていた裳を裂くと、赤子を包んだ。そうこうしているうちに二人目が産道を降りてきて、夕星はふたたび痛みに絶叫した。子どもの弱々しい産声が、自分の叫びにかき消されるのを聞いた。


 今度の子は逆子ではなく、夕星は螺良の示したときに合わせて力を入れればよかった。頭が見えたと言われてからは、あっという間だった。螺良曰く少し小さめの赤子が産まれてみると、今度も男だった。


 おかしい。夕星は目を瞬きながら、螺良の手で取り上げられた男児を見つめた。激しい産声が、確かに耳に聞こえる。なぜ自分はまだ、生きているのだろう。


 二人目の臍の緒が切られ、螺良の手で布に包まれているあいだ、腹の中で動くものの感触があり、夕星はぎょっとした。


「あ――」


 もうひとりの赤子が、まだ身体のなかにいる。だがこれ以上の痛みに、耐えられる気がしない。すでに精も根も尽き果てているのに、もう力など残っていない。


「どうした」


 異変に気付いた螺良が、子を注意深く床に置いてから、夕星の腹の手触りを確かめた。ちょうど胎動で突かれたあたりに触れたとき、螺良の表情もにわかに引き締まった。呟いた声は、燃え盛る火炎の音にほとんどかき消されそうだった。


「三人目がいる」


 ならばこの子が、級長戸辺の娘なのか。一人目、二人目では必死だったが、我に返ったいま、唐突に恐怖が沸き上がった。


「無理です」

「なに?」


 炎が轟々と燃える音のなか、訊きかえした螺良に夕星は言った。


「もうひとり産む力など、残っていません――どのみちこの火の回りでは、産み終える前に私も貴女も死にます」


 火はすでに殯屋の壁を覆い尽くし、広い板の間の真ん中にいる夕星たちを取り囲んでいた。どこからも逃げることはできない。


「火の衣を被って、お戻りなさいませ。私は級長戸辺の娘とともに残ります。火のなかでもこの子が産まれて生き残ったら、あとは貴女たちの好きになさったらいい」


 声を震わせながら言った夕星を、螺良が静かに見据えた。


「この子は級長戸辺の娘ではない。其方が何と言おうと」


 断固とした口調だった。


「鞠智彦様の子である以上、火の神の裔だ。其方には渡さない。渠帥者の妻が連れて帰る」


 夕星は言葉に窮した。身の裡で荒れ狂い乱れる何かがあったが、ひとつも声にならない。


「私がここへ来たのは、ひとつには木葉で命を救われたからだ――まだ其方に報いていなかったから。だがもうひとつは、渠帥者の子を無事に取り上げるためだ」


 胸の奥が千切れるような喪失感だった。死とともに別れざるを得ない子たちに、捨てたはずの未練を覚えたからだろうか。覚悟と矜持に満ちた螺良の面立ちに、自分にはないものを見たからだろうか。


「護りと別れてまでながらえた命を、ここまで来て捨てるのか。どうせ絶えるなら、最後まで役割を果たせ」


 夕星は唇を噛んだ。月夜に見た葉隠の相貌が蘇る。いつでも夕星を護ってくれた相手に、会えるとしたら黄泉でのことだ。


 彼はきっと、ながらえた命をどこまでも生きるだろう。夕星をひたすら護ってくれた彼なら。ならば自分は、彼に誓ったことを打ち捨ててはならない。


 葉隠を護れなかった自分に、まだ護れるものが残されているなら、それはこの子だけだ。何もかも喪って自失していたとき、命をつながせてくれた相手を護らないなど――ありえない。


「まじないの衣は要らない。私のために持って来たものではないから」


 螺良が沈黙を破って、ふと我に返る。目を瞬いた夕星は、覚悟を決めた。腕を伸ばせば届きそうなところまで火が迫っている。折しも屋根の一角が燃え落ちた。穴からのぞいた天の原は、薄紅に染まっている。きっともうすぐ、月が昇るだろう。


「最後の子を、取り上げてくださいませ」


 噛みしめるように言った夕星に、螺良はうなずいてみせた。髪が汗で顔に張りついた夕星と対照的に、螺良の面には汗ひとつ浮かんでいなかった。



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