二十二 疑惑
里長たちばかりでなく、館の者たちも勘繰る表情になった。何より鞠智彦自身が、眉を顰めざるを得なかった。
「確かか」
思わず強張った声が出た。老臣はとくに疑問もない様子で頷く。
「いまにも産まれそうな腹でございますが」
あの伽以来、鞠智彦は朝霧を見ていない。それほど赤子の成長が進んでいたとは知らなかった。
「産まれるのが早すぎる。――鞠智彦様も、疑いを抱いておいでではないのか」
最初に食ってかかった里長が、口角から泡を飛ばして言った。
朝霧は一夜で身籠ったと思っていた鞠智彦のなかで、急に疑念が頭をもたげた。閨を訪ったのは自分しかいないはずだが、その前提が間違っていたとしたら。痛がる様子から、あれが初めての伽だと思ったけれど。
「風読は、渠帥者を斬った武人と通じていたのではありませんか」
里長たちが鬱憤にまみれていることも、議論が都の整備から始まったことも、もはや頭から消し飛んでいた。朝霧に裏切られたのではないかと考えはじめると、猛烈な苛立ちを留めることができなかった。
「わからぬ。否めるだけのことを知らぬ」
本音が出た。朝霧に関することは歯止めが利かなくなるという、生前の阿蘇津彦の指摘そのままだ。
この場で朝霧を糺すべきだという声が上がり、鞠智彦が頭を冷やす間もなく彼女が連れてこられた。蒼白な顔をした梓もいた。
広間に引きずり出された朝霧は、ひどく当惑していた。彼女の腹ははち切れんばかりに大きくなっている。すでに聞いていたとはいえ、鞠智彦は落胆でみぞおちが重くなった。
やはり朝霧の心には、ただ一人の相手しかいない。知ってはいたけれど、目の前で裏切りの証を見せつけられると平静を保てなかった。心だけでなく身体までも、月読の若者に奪われていたのだ。
二人の渠帥者の前に押し出され、朝霧はまろぶように膝を突いた。そのとき彼女が腹を庇ったことすら、鞠智彦の怒りを煽るものでしかなかった。
足音高く現れた下男は、夕星の腕を掴んで寝所から引きずり出した。里長や渠帥者の臣下たちが居並ぶ広間に着いてみると、誰もが敵意を露わに待ち構えていた。張り詰めた空気のなか、渠帥者の御座の前に押し出される。
転んで腹をぶつけそうになり、とっさに庇った。御座を見上げると、老臣と並んだ鞠智彦が、峻烈な怒りを夕星に向けていた。その視線が紛れもなく腹部に向いていると知り、愕然とする。
恨まれて当然だと、わかってはいた。七滝が夕星に関する噂を広め、それを問いただした場で阿蘇津彦が亡くなったと、断片的にだが聞かされていたから。彼の兄の死を間接的に招いたのは自分だ。
だがそれだけでなく、鞠智彦は夕星に宿った子すら憎んでいる。彼自身の娘までも。
父であり渠帥者である彼に憎まれたら、次の風読はどう生きたらいい。自分はこの子を護ることはできないのに。頭が真っ白になりかけた時、鞠智彦が口を開いた。
「八月とは思えぬ大きさだな」
突き放すような語調に、意味するところはすぐにわかった。
「一夜しか訪っていない俺の子とは思えぬ」
広間じゅうがざわめくなか、夕星は反駁した。
「渠帥者以外に、私が身を許した相手などない」
言葉は見えない壁に突き返されたかのようだ。響いた声は広間に漂ったものの、誰にも待たれていないことがありありとわかる。
何を言っても、この場には受け入れられない。ならばどうやって真実を伝えたらいい。
お腹が大きくなるのが早すぎると思われているらしいが、夕星は身重の女の体格が本来どのくらいのものか知らない。反論のしようがなかった。
「月読のあれと通じたのだろう」
燃え滾るような目をこちらに据えて、鞠智彦が言った。追随して責めるような囁きが、背後で湧きあがった。
「断じてありえない」
必死で彼を見つめ返し、夕星は答えた。互いの視線は一分も揺らがない。
「何重に熊襲を裏切れば気が済むのだ」
里長や臣下たちが次々に怨嗟の声を上げ始めた。鞠智彦は冷ややかな目で夕星を眺めるだけだ。隣の老臣は狼狽した表情を浮かべてはいるものの、黙ったままだった。
味方はいない。だが疑いを晴らし、次の風読が生きていく道筋をつけなければ。
無意識に守るようにして手で抱えていた腹に、その刹那鋭い痛みが走った。
「――な」
同時に、足の間をぬるい水が滴る。激痛を堪えて顔を歪めると、御座から老臣のうろたえた声が響いた。
「静まれ――静まれ!」
最も頻繁に夕星に会っている彼が、真っ先に異変に気付いた。怒鳴り声の嵐がざわめきに落ち着くころには、痛みの波がいったんは引いていた。
「どうしたのだ」
「子が産まれる」
ここ何日か、締め付けられるような痛みが走ることはあったが、これほど強くはなかった。明らかに何か違っている。
「やはりか」
誰ともなく言った。冷然と注がれる鞠智彦の眼も、同じことを告げている。
背後を振りかえったが、敵意を漲らせた群臣たちがこちらを睨んでいるだけだ。お産について何ひとつ知らない自分が、助けを求められる相手はいない。
このまま夕星が死んだら、子は濡れ衣を纏ったまま産まれることになる。群衆の恨みの勢いで、その場で殺められたりしたら。
それだけは考えたくなかった。子が鞠智彦の血を継いでいると――火の神の娘であると証さねばならない。
頭を抱えると、髪に編み込まれた色紐に爪が食い込んだ。同時に、ある考えが浮かぶ。
ひとつだけある。火の神の裔であると、間違いなく示せる方法が。
夕星は鞠智彦を見上げた。突き放すような目線を浴びながら、あらん限りの声を張る。
「この子は間違いなく火の神の裔だ」
「よく言えたものだ」
「偽ってなどいない。産まれた娘を、火に晒してみればいい」
鞠智彦はかすかに眉根を寄せた。彼の疑念がわずかでも揺らぐことを祈りながら、夕星は続けた。
「傷ひとつ負わないはずだ。火の神の血を継いでいるのだから」
静まりかえった広間の隅まで、夕星の声は通った。思わぬ反論と気迫に押され、場が凍りつく。ところがこのままでは引きさがれないとばかりに、誰かが言った。
「ならば火中で産んでみればよい」
一瞬意味を取りかね、夕星は顔をしかめた。そうだ、というざわめきが追随する。
「火の神の子なら、炎のなかでも産まれて来られるだろう」
夕星は蒼褪めた。産痛はまだ始まったばかりだ。いつ赤子が出てこられるかわからないのに。
「――産まれる前では、子もろとも死んでしまう」
「拒むのなら、やはり密通の子だったと思うまでだ」
抗う間もなく、近くにいた男たちに両腕を掴まれた。
「産屋を用意してやる。すぐにお前の殯屋になる場所が良い」
広間から引きずり出され、どこかへと連れられてゆく途中、二度目の激痛が訪れた。敷地の片隅にある殯屋に押し入れられたとき、夕星は腰を裂くような痛みに絶叫していた。
床板に倒れ込むと同時に、背後で戸が締められた。間もなく火打石をかち合わせる音がして、痛みの合間にも絶望が胸を蝕んでいった。
激痛の感覚は次第に短くなり、夕星は獣のような声を上げながら痛みに耐えるしかなかった。殯屋は徐々に炎に包まれていく。熱気が満ちるにつれ、滝のように汗が流れた。
阿蘇津彦の殯屋が広大なことだけが救いだった。全体に延焼するには、しばらく猶予がある。自分が焼け死ぬのが先か、子が産まれるのが先か――それだけが頭を占めていた。
最初のうちはいきんではいけない、といつか誰かが言ったのを憶えている。だがいつ何をすればいいのか、わからない。顔を流れるのが汗か涙かもわからなくなったとき、大きな物音がして、何者かが中に入りこんできた。床に這いつくばったまま、夕星は視線だけをそちらにやった。




