二十一 訃報
命からがら戻った赤水が伝えた訃報に、館じゅうが騒然となった。
裏切りを認めた七滝は赤水を振りきって逃げ出し、消息が知れない。さらに鞠智彦を輔弼し、政務の要であった阿蘇津彦の死は、熊襲にとってあまりに大きな喪失だった。
鞠智彦は近衛とともに阿蘇津彦が絶命した峰へと向かうと、どうにかして噴石を取り除き、兄の遺骸を収めた。骸は、館の敷地の片隅に建てられた殯屋に横たえられた。
館の者も球磨の民草も、殯屋を訪れた。とりわけ螺良は、足しげく殯屋に通った。彼の無残な姿を見るのは辛かったはずだが、懸命に死を受け入れようとしてなのか、いつまでも阿蘇津彦のそばにいた。
いっぽう風読は、阿蘇津彦の死を伝えられても眉ひとつ動かさなかった。誰より風読を役立てようとしていた彼が去ったことで、さらに立場が危うくなるとわかっているはずなのに。
風向きや空模様のことは、阿蘇津彦に代わって老臣が訊きに来るようになった。それに答える以外朝霧は誰とも話さなかったが、一度だけ、望月を見ながら呟いたことがある。
「黄泉にも月は出るだろうか」
脈絡のなさに戸惑いつつも、梓は答えた。
「きっと出るでしょう。黄泉は月読の神の治めるところと聞きます」
「そうだったな」
何も話さず、考えることも放棄したあいだに、多くのことが風読の心から抜け落ちていたようだった。
「ならば黄泉は怖くない。でもできれば、私の娘を気にかけてやってくれないか。こんな風読は、私が最後で良い」
授かった経緯は辛かったはずなのに、朝霧はこのところよく愛おしそうに腹を撫でていた。胸に鋭い痛みを覚えながら、梓は頷いた。
「乳母をお探しいたします」
うなずいた朝霧はどこか遠くを見ながら、いつまでも腹をさすっていた。
「護る相手がいるのは良いことだな――その間は、生きていたいと思える」
その腹部はいつ産気づいてもおかしくない大きさに見えたが、それを知っているのは梓と螺良だけだ。朝霧の目付は、阿蘇津彦の死で館が慌ただしくなって以来、ふたたび梓ひとりとなっていた。
三月の殯を経て、阿蘇津彦の骸は葬りに付された。彼の死で空位となった渠帥者の座には、阿蘇津彦に長年仕えた老臣が据えられた。
政を一手に引き受けていた兄がいなくなり、鞠智彦の負担は増した。もともと彼は軍務を、阿蘇津彦は政務を切り盛りしていた。その体制が崩れたのだから、混乱が生じるのは必定だった。
何より鞠智彦は、生まれたときから傍らにいた兄を失った。口は悪いがあらゆる方向で自分を導いてきた手を失い、彼の胸には大きな空洞ができた。その虚を満たす手立てはない。最も心を預けたい相手は、彼に抱かれたことを嘆いてやまなかった。螺良は変わらず彼を好いていたが、それには後ろめたさしか感じなかった。
埋めようのない悲しみと、国の営みに忙殺されることの鬱憤が、あの日は溢れたのかもしれない。秋の日のことだった。
誓約に向けて、渠帥者の館に臣下たちが集まっていた。阿蘇から球磨に移り住んだ里の長たちもいる。彼らが一様に税や夫役の軽減を求めたことで、場は紛糾した。
球磨での開墾が思うように進まなかったと、里長たちは主張した。一方、渠帥者周辺の臣下は従前どおりの貢納を期待した。いずれふたたび智鋪に戦を挑むために、余力を蓄えておきたい。球磨を新たな都として整備するため、夫役はさらに徴発を進めたいと。
「いまの球磨は、住む者は多いのに都としての形が整っておらぬ」
傍らにいたもうひとりの渠帥者が言った。彼は政の経験こそ豊富だが、呪者として迫力があった阿蘇津彦とは違う。ときおり迂闊な発言もあるが、政に最も精通しているのは彼だからと渠帥者になった。その彼は続けた。
「水路や道を整えれば、移り住んだ者にも等しく益がある」
「等しいなどと、誰が信じるか」
食ってかかったのは、阿蘇から里を移した長のひとりだ。周囲の他の長もうなずく。都の中心部から整備が進められるのは自明であり、その間彼らは、自分たちの集落を手入れする人手も足りなくなる。
「暴れ山から逃げたことで、里の蓄えはほとんど尽きている。このうえ税や夫役の負担が重いのではたまらない」
次々に同意の声が上がった。重臣の誰かが不満げに抗弁する。
「阿蘇津彦様の告げ事がなければ、里ごと滅びていたのだ。生き残れたいま、阿蘇津彦様亡き熊襲を助けるべきではないか」
感情的な言い分に、里長たちが異論の声を上げた。阿蘇津彦に敬意はあっても、彼を盾に税をねだられるのは承服しかねるのだろう。
「熊襲を助けたいなら、風読を斬ればよい」
誰かが言った。鞠智彦はわずかに眉をひそめた。老臣も首を傾げる。
「なぜ、そうなる」
「あれが来てから、ろくなことがない。鞠智彦様を斬った者が忍びこんだり、阿蘇津彦様が亡くなったり。あの武人が見つかった夜にも嵐を呼んだのだろう」
驚いた様子の者はおらず、抑えた声で同意と憶測を囁きあっている。前々からそう思っていたのであろうことが見て取れた。
月読の武人のことはともかく、阿蘇津彦の死については言いがかりだ。彼らが朝霧を罰したがるのは、苦しい状況の裏返しだろう。風読を失うことの意味をわかっていない。
「これから野分の季節が来る。風読を処断するのは得策でない」
億劫ながらも口を開いて、鞠智彦は言った。風読を御妻に抱える彼が発言したことで、その場は水を打ったように静まり返った。しかしそれでも誰かが言った。
「どのような季節になるか占わせたうえで、早々に罪してしまえば」
そうだ、と後押しする声が遠慮がちに上がった。
「風読が言い当てられる空模様は十日先までだ。季節を一度に見通せるわけではない」
ときおり風読を聞いている老臣が、性急な声を諫めた。
「その程度か。そんな風読を生かしておく義理が、どこにある」
昨年朝霧を津奈木へやってしまったせいか、球磨の者は彼女の力の正確さを解していなかった。春夏は穏やかな気候が続き、風読がそれほど必要でなかったことも、その傾向に拍車をかけた。夏の終わりの気の早い野分を警告したのは、紛れもなく朝霧なのだが。ふたたび口を開いて、鞠智彦は告げた。
「風読はすでに罪されている。護りと引き離され、渠帥者の御妻になった」
朝霧が子をもうければ死ぬ。皆それを知っているはずだ。
「まだ身籠っていないのでしょう?」
諦め切れない里長のひとりが、慎重な口ぶりで尋ねる。声には期待が滲んでいる――早く身籠ってほしい、と。鞠智彦にとって、厭われてなお頭を離れない朝霧が、長たちにとっては憎くてたまらない相手なのだ。
あの宵、恐怖に怯えていると思いきや、朝霧はどこか恍惚とした貌で鞠智彦を迎えた。意に染まない伽を強いることに悩んでいた彼の、葛藤を軽くするのに充分なほど。まさか媚薬によるものだったとは。
朝霧が心を許し、彼を閨に迎えてくれるなら、何であっても差し出したかった。許されないまま組み敷くことは、抱かないことより深い苦しみになる。だが、それが他の者に解されるとは鞠智彦も思っていない。
阿蘇津彦の死後、梓がおそるおそる告げに来た事実――いま風読を苦しめているであろう事実を、鞠智彦は初めて明かした。
「すでに身重だ」
驚きが瞬く間に広がった。いくらかの安堵も含まれている。
「では、災いの種は遠からず除かれると」
「いかにも」
心から同意してはいなかったが、鞠智彦はうなずいた。老臣が隣で加勢する。
「次の望月には、産声が聞けるだろう」
彼にしてみれば、鞠智彦の所見を補強するための言葉だったろう。しかし、いったんは落ち着きかけた場がまたざわめき出した。
朝霧が御妻になったのは、年が明けてすぐのことだ。まだ八月と少ししか経っていない。




