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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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二十 背信

 葉隠と別れた後のほうが、まだ良かった。熱に魘されているあいだに、時が過ぎた。

 胸を蝕む悲しみを抱え、夕星は茫と過ごした。梓が声をかけても答えず、阿蘇津彦に風読を淡々と告げた。


 抜け殻のようなありさまに気後れしたのか、阿蘇津彦の訪問は間遠になった。どちらにしろ野分や大雨の時期には当たらなかったから、それでもどうにかなった。


 寝所で蹲り、あるいは横たわって過ごすだけの日々で、夕星は食欲もなくしていった。じきに、何をしていても気分が優れなくなった。


 大王の影でいたときも、ここまで具合が悪かったことはない。だいいち寝所に閉じ込められてから、まだそれほど経っていないのに。


 ありえない。


 ひとつの疑いが頭をもたげたけれど、夕星はそれを否み続けた。しかし、疑いが次第に補強され確信に変わっていくと、今度は恐れが芽生え始めた。


 鞠智彦はあの夜以来、閨を訪っていない。少しずつ膨らみ始めた下腹を目にする者は、夕星以外なかった。


 たった一夜の妻問いで、自分は身籠ってしまったらしい。鞠智彦に抱かれて酔っただけでなく、彼の娘を産んで死ぬ定めまでが刻まれた。


 別離を経ても生きようと葉隠に誓ったことは、すでに何の意味も持たなくなっていた。





「身重になった?」


 螺良がわずかに眉を顰めたのを、梓は見逃さなかった。


「はい」

「月の障りは」

「ありません」

「つわるのか」

「そのようで、朝餉も夕餉もほとんど召し上がりません」


 螺良は視線を伏せた。隣の侍女はひたすら恬淡としている。


「いつからだ」

「訪いのひと月ほど後から。今から四月ほど前です」

「ならばもうすぐ終わるだろう」


 短く言った螺良は、里の記憶を思い起こしているのかもしれない。彼女は子供の頃から、どんな女のお産にも駆けつけていた。大人たちの仕事と思い、特に関わろうとしなかった梓は、幼馴染の熱意に感心したものだった。


 なのに螺良はまだ身籠っていない。あれほど自分の子を待ち望んでいたのに。


「阿蘇津彦殿はご存じか」


 はい、と梓は頷いた。彼は朝霧の顔色が悪いことに早々に気づき、誰より早くその可能性を指摘していた。


「何者にも告げてはならぬと言われております」





 その阿蘇津彦は、旧都を見下ろす山に麾下の七滝と、もうひとり若い近衛の赤水とともに陣取っていた。


 温和な顔立ちの七滝だが、切れ長の目は兄の鬼八とよく似ている。智鋪に間者として潜り込み、大王襲撃の咎で捕らえられた射手だ。阿蘇津彦が憑りついた白露は、智鋪の近衛に射られて息絶えた。あの娘の身体を借りて忍び込むことは、もう叶わない。鬼八がどうなったかは確かめられていなかった。


「灰はあらかた降り終わったようですね」


 七滝が集落を見おろして言った。厚く灰を被った村並みは、雪に覆われている。冬になってからは灰が注いでいないのだ。

 ああ、と阿蘇津彦は低く答えた。鞍の下の馬を通じて、微かな地鳴りが伝わってくる。


「地の下の歪みが、おおむね吐き尽くされたのだろう」


 言いながら彼は下馬した。七滝と赤水もそれに続く。


「智鋪は、暴れ山のことを知っていると思うか」


 尋ねると七滝は、驚いたように阿蘇津彦を見つめた。鬼八と同じく最も得手である弓矢は、今日は持たないよう告げた。阿蘇の様子を見るだけだから必要ないと言って。


「風読によれば、日の巫女は死んだと」

「ああ。だが、生きていたあいだに何か言い残したやも知れぬ。あるいは、間者を通じて山のことを聞き及んだかも」

「ありえないことではないと思いますが――間者などいるでしょうか」


 無難な受け答えをした七滝に、阿蘇津彦はうなずいてみせた。琥珀色の瞳を、自分の髪と同じ鳶色をした目に据えた。


「このところ、渠帥者の館で日の神の裔の気配がする――たまにではあるが。おかしなことと思わないか」


 七滝ははあ、と首を傾げた。面持ちに不自然なところはないが、話を変えたい様子が感じ取れる。


「日の神の裔は智鋪にいるはずでは」

「ああ。だが、何かに魂を宿らせて潜り込んでいるのかもしれない。俺がかつて、智鋪の采女の身体を借りたように」


 赤水がわずかに緊張した。彼は今日、阿蘇津彦がここへ来た目的を知っている。


「しかし、日の巫女亡き今そのようなことが――」

よつぎの娘がいると、風読が言っていただろう。日の巫女に匹敵する力を持っていると」


 鬼八が去ってから、彼の弟である七滝は阿蘇津彦に側近中の側近として仕えてきた。風読が智鋪に仕えていたことも、鞠智彦の腕を奪った若者の正体も、彼を朝霧が匿っていたことも、七滝は知っていた。彼女が子を産めば生きていられないことも。


 秘めておこうとした事柄が噂になったのは、七滝が流布したとしか考えられない。すべてを知っていたのは、渠帥者以外には彼だけなのだから。

 阿蘇津彦はゆっくりと言葉を継いだ。


「はじめは、妙な気配と思っただけだった。しかし采女の身体を借りたときに見た、日の巫女の弟の気配と似ていた。その気配がしてしばらくすると、噂が流れた。俺たちが伏せておこうとした物ごとが知られていた」

「まさか」


 七滝の顔は明らかに強張っていた。赤水が視野の端で短剣の柄に手をかける。


「風読について噂を広めたのは、其方ではないか? あれに風読をさせるのを阻めと、日嗣ひつぎの娘に言われたのだろう」

「――私が熊襲を裏切る、理由がありません」


 口ごもりつつ、七滝は反駁した。


「日嗣の巫女が現れたとして、その命に従う謂れがどこにあるでしょう。阿蘇津彦様に突き出すのが先決です」

「他の麾下なら、そうであろうな。だがお前は、鬼八の命を質に取られているのだろう」


 図星のようだった。返答に窮した七滝は、表情まで凍りついた。

 阿蘇津彦の予想どおり、鬼八はまだ生きていて智鋪に命を握られている。兄が殺されないよう、七滝は智鋪の嗣の娘の言うことをひたすら聞いていたのだ。


「兄の命と熊襲への忠義をはかりにかけ、鬼八の命を取ったのではないか?」


 詰問の手を緩めはしなかったが、阿蘇津彦は深い落胆に包まれた。最も信頼していた麾下が、積極的に自分たちを裏切っていた。


「朝霧に子を産ませろとの声が高まれば、俺たちは聞かざるを得ない。怒った民に風読を殺されるよりは、次の風読を産ませたほうが良いからな。だがそののち何年かは、せっかく手に入れた力を手放すことになる」


 それこそが、智鋪の巫女の狙いではないのか。七滝から熊襲の情勢を聞き取るだけでなく、風読を渠帥者から遠ざけること。


「日嗣の巫女は、どうやって其方のもとへ現れた?」


 赤水が七滝の腕を掴んだ。棒立ちになった彼の脇腹に、短剣の刃を突きつける。地の鳴動がにわかに強くなった。


「――鳥に、魂を宿らせておりました」


 絞りだすように七滝が言った。いよいよ彼の裏切りが決定的となり、阿蘇津彦は深く息をついた。山が激しく唸り、馬が不安げにいななき出す。


「日の神の裔に、鳥飛ととひの力があったとはな」


 話に聞いたことしかない、古い術だった。七滝は目を伏せてから、まるで言い訳のように言い足した。


「姫神の娘の技を見て、自分も真似事をしたとかで」


 姫神の裔は筑紫洲北部を治めていたはずだ。鳥飛ができるとは初耳だが、日の巫女が見ただけでそれを体得したとはさらに驚きだ。まだ幼く践祚せんそはできないはずだが、熊襲にとってはいずれ間違いなく脅威となるだろう。


「日嗣の巫女は、いつ現れる」

「わかりません。突然飛んできて、命だけを伝えて去って行きます」


 七滝の腹に、赤水が刃を強く突きつけた。衣が裂け、肌に血の珠が浮かぶ。阿蘇津彦は眉ひとつ動かさず、焦る麾下の面を見つめた。


 足元から、火の山が残った歪みを発散しようと脈打つのを感じる。呼応するように山鳴りが激しくなった。山並みに囲まれた頂が、灰と噴石を吐き出す。久々の噴煙が立ちのぼったが、めりめりと地の裂ける音は遠く、ここに火は噴かない。


「誓って本当でございます。今度現れた際には、必ずお知らせいたします。ですから、どうか――私が背を向ければ、兄は殺められてしまう」


 阿蘇津彦は我知らず口元を歪めた。自分が鬼八を間者にしたばかりに、彼は質に取られてしまった。七滝は巡り巡って熊襲を裏切ることになったが、もとはと言えば渠帥者の命が招いた事態ともいえる。


 逡巡した刹那、赤水の顔が驚愕に歪んだ。大きく口を開け、彼が何事かを叫んだときにはもう、遅かった。


 阿蘇津彦の眼前は暗くなり、そうと悟る間もなく彼は命を絶たれた。空から降り注いだ噴石のひとつが、彼の身体を跡形もなく圧し潰したのだった。


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