十九 伽
閨を渠帥者の居所近くに移されるころには、夕星が鞠智彦の御妻になると明かされて情勢が落ち着いたのか、館の者たちの嫌味が聞こえてくることはなくなった。ただ、日没後に戸口へ歩いてくる足音がしないかだけを恐れていた。
ある月のない夜、その足音はついにやって来た。梓でも阿蘇津彦でもない、重い足音だ。いつもと違い梓が灯心を置いていったから、何があるかは言われなくてもわかった。
冬の宵なのに、なぜか身体は温かかった。手足にも顔にも、強く血が通っている。肌を覆う温みのせいか、身が軽くなったような感覚があった。
戸口に立ちはだかった鞠智彦を見上げた夕星は、彼と目が合った。いつもの苛烈さが瞳の奥に、かすかに窺える。しかし面持ちは物憂げで、深い悩みがあった。夕星が認めるまで伽を求めない、とかつて言ったのは本心だったのだろう。
憂いをたたえたその目が、夕星を見るなりわずかに瞠られた。小さく息を呑んだ鞠智彦は、夕星の目の前に来ると膝を突き、まじまじと顔を眺めた。輪郭の一寸、睫毛の一本一本までを、脳裏に刻みつけようとするかのように。
やがて武骨な右手の指が、頬に触れた。あれほど恐れていたのが嘘のように、恐怖はない――それどころか、鞠智彦の触れた肌にいっそうの熱が通う。
いったい自分は、どうしてしまったのだろう。
慕った者以外に触れられるのは恐ろしいことのはずだ。なのに、身体を熱くするこの力は何だ。火と風の裔が引き合うからだけだとは思えなかった。
戸惑い、身を引こうとした夕星の顔を、鞠智彦の手が放さなかった。華奢な頬の輪郭に手を添え、いつぞやの夢のような、噛みつくような口づけをした。
柔らかな感触が唇を覆い、間もなく彼の右腕が背中に回される。夕星をきつく抱いた。苦しいほどの抱擁なのに、跳ね上がった胸の鼓動に不快さはない。むしろ、より触れられることを求めて熱くなっている。
「鞠智彦様――」
息もままならない口づけの合間に呼んだ名は、意に反して彼を刺激したようだ。頭の後ろに大きな手が添えられ、彼の唇から逃れられなくなる。
そのまま鞠智彦の重みに屈し、薦の上に組み敷かれた。細い腕で抗おうとしても、鍛え抜かれた体躯はびくともしない。ますます激しく血が通う自身に戸惑いつつも、顔から首へ、首から胸元へと肌を撫でる鞠智彦の手を、唇を止められなかった。
身体の熱が、甘い疼きへと変わっていく。彼の指と舌に執拗に愛でられるうち、やがてそれは拒みようのない快楽になっていった。
鞠智彦の愛撫も抱擁も、連々と続いた。
破瓜の痛みはあった。けれど鞠智彦はそれを、前後の強い快感の合間に埋めてくれたようだ。強烈な痛みが薄れていくにつれ、羞恥も戸惑いもどこかへ姿を消した。
何度目かに快感に貫かれた感覚を最後に、夕星は墜落するような眠りに落ちた。名残惜しそうに髪を撫でる手の感触だけ、夢うつつに憶えている。瞼を開いた時には、朝ぼらけの光が戸口の薦の隙間から差していた。
ゆうべ身体を包んだ熱は、すでに消えていた。はっと身動きすると、腰に感じたことのない怠さがある。鞠智彦に触れられ、抱かれた感触が一挙に蘇った。伽の間は酔いに翻弄されていた意識が、途端に耐えがたい後悔に襲われる。
寄せる快楽に任せ、彼の胸にしがみついたことを思い出す。唯一人の相手と自分を引き剥がした渠帥者に、陶酔したことが信じられない――信じたくなかった。呆然とする間にじりじりと日は昇ったようで、やがて梓がやってくる足音が聞こえた。
身を起こして彼女を迎えた夕星は、縋るように言った。
「水を――湯殿を使いたい」
ただならぬ様子に気づいた梓は、すぐ頷いた。湯殿の水は幸い凍っていなかったが、冬の朝を閉じ込めたように冷たかった。
身体を必死に洗った。すべて洗い流してしまいたい。身体に残る鞠智彦の感触を忘れてしまいたい。思いながら手を動かしたけれど、決して叶わないことは夕星自身が一番よく知っていた。
震えながら身体を流していると、窓越しに声がした。
「何をしている」
阿蘇津彦だった。反射的に首をすくめる。今の姿を最も見られたくない相手だ。
「朝霧姫が、湯殿を使いたいと。とても気落ちされていて」
梓が沈んだ口調で答えた。ふむ、と阿蘇津彦が考え込むような声を出した。
「薬を与えたのではないのか」
「ええ。仰せの通り、夕餉の白湯に」
夕星は水桶を運ぶ手を止めた。
「伽が快ければ、恐れは和らぐかと思ったが」
頭を殴られたような衝撃が襲った。昨夜身体を包んだ快楽は、知らない間に飲まされた何かによるものなのだ。
「それは何とも。割り切れない心があるのかもしれません」
梓が歯切れ悪く言った。阿蘇津彦の意図は解しつつも、それで解決する問題ではないと知っているかのように。
続きは聞かなかった。濡れた身体のまま衣を羽織り、湯殿の外へ飛び出した。気づいた阿蘇津彦がこちらを見やり、梓が慌てて駆け寄ってくる。
「其方は――」
凄まじい剣幕に驚いた梓が、夕星の腕を掴んだ。その手を振り払って続けた。
「私の身体を伽に差し出させただけでなく、心まで弄ぼうとした」
半ば叫ぶように言っても、阿蘇津彦は怒ってはいなかった。夕星が激怒したことに、純粋に驚いているようだ。何が逆鱗に触れたかわかっていない。
「そんな手でも使わなければ、小娘ひとり制せないから――其方も……其方の弟も」
支離滅裂な訴えだと、どこかでわかっていた。だが口を突いた激情は止まらない。怒りに衝き動かされているはずなのに、嗚咽が喉を震わせる。
「だけど結局、永遠に私の護りに勝てなくなった。伽を強いたのだから――その意味はきっと、わからないだろうけれど」
息を切らして言い捨てても、心はまったく晴れなかった。あらん限りの怒りと悲愴を、言葉に託したはずだった。けれど失ったものが大きすぎて、何も埋められない。
「結局、私の身体を奪って、悦に入りたいに過ぎなかった」
それがすべてではないと、わかってはいる。閨に現れた鞠智彦は葛藤していた。夕星が許すまで伽は求めないと言った少なくともあのとき、彼は嘘をついていなかった。
膝からくずおれた夕星に、誰も何も言わない。
母屋の外廊で鞠智彦が叫びを聞いていたことを、夕星はついぞ知ることはなかった。




