十八 御妻
阿蘇津彦が伏せたはずの事実は、いつの間にか館の者たちの噂の的となった。風読の護りは鞠智彦の腕を斬った武人であることも、彼と親しくしていたことも皆に広まっていた。
夕星の寝所に来るのは、梓や阿蘇津彦、見張りの衛士だけだ。なのにやたらと、人の声がするようになった。
葉隠がいなくなって数日、矢傷の熱からゆっくりと我に返っていく中で、明らかな悪意を含んだ下男や下女たちの声が響くのを耳にした。何日かを経てもそれは収まらず、むしろ増えていく。風読を聞きに来た阿蘇津彦に向かって、なぜ夕星がのうのうと生きているのか詰め寄る声も聞いた。
熊襲を導く渠帥者を傷つけておいて、その者を匿っておいて、なぜ何も差し出さずに生きているのか。言葉の端々に、理不尽を訴える思いがあった。
「私と護りについて、すべて皆に伝えたのか」
ある日夕星が虚ろに言うと、阿蘇津彦は顔を歪めた。
「俺は伝えていない。そう思うなら勝手に思っておけ」
吐き捨てるように彼は言った。刺青に縁どられた眼がにわかに敵意を帯びる。
「いま民草の憎しみからお前を護っているのは何だと思っている。風読を役立てようとする俺の意志ひとつだ――わかったら口の利き方を変えろ」
そのとおりだった。逆上した誰かが夕星を襲いに来たら、彼の思惑は狂う。彼の弟がどれほど尊崇されているかは、夕星も知っていた。そのくらいのことをする者が現れてもおかしくはない。
ならば、誰が。
思考はすぐに霧散してしまった。どんな考えも、悲しみが現れて邪魔をしてしまう。
黙り込んだ夕星を怪訝そうに見やり、阿蘇津彦が立ち上がったときだった。何かが鋭く壁に当たる音がした。一瞬目を細めた阿蘇津彦が、戸口を振り返る。床まで垂れた薦越しには何も見えない。
阿蘇津彦が薦を上げようとしたとき、屋外から声が飛んだ。梓だった。
「どうかそのまま、阿蘇津彦様」
「何だ、どうした」
一拍をおいて梓が答える。
「矢が射込まれたのです。壁に刺さっただけですが――衛士を呼んでまいります」
遠ざかっていく軽い足音がした。渋面を作った阿蘇津彦は、梓が戻るまで一言も発しなかった。
「其方をこのままにしておくことができない」
その日、黄昏の頃に夕星を呼び出した阿蘇津彦は、苦い面持ちで言った。彼の脇には鞠智彦が座し、戸口の外には七滝を待たせていた。
「牢に入れと?」
尋ねると、阿蘇津彦は気まずそうに首を振った。その様子に、なぜか嫌な予感が募った。
「風読が子をもうければ死ぬという噂が、護りのことと同様知れ渡っている。其方を殺めようとする者ばかりでなく、襲おうとする者も出てきかねん」
ことがそれほど差し迫っていると知って、夕星は慄然とした。鞠智彦は静かな無表情で耳を傾けている。今までになく落ち着いた彼の様子が、ふと最悪の予想を囁いた。
「まさか――」
「其方を鞠智彦の御妻とする」
眼前から、何もかも掻き消えて真っ暗になった。紅い陽が差す中、夕星の目は束の間視界を失った。
悲しむ余地は、もう残されていないと思っていた。ならば胸の裡に満ちていくこの冷たさは何だろう。絶望と呼ぶほかない気がした。
力なく開いた唇から、抗弁も問いも出てこない。夕星はただ俯き、身体を折った。目の前のことにどう立ち向かえばいいか、頭が働かない。
「最初から、そのつもりだったのでしょう」
勝手に口を突いた言葉は、夕星の疑いを妙にまっすぐに表していた。
「国の再興に風読を役立てるあいだ、私を生かすというのは偽りだった」
最初から風読を産ませるつもりで、葉隠と引き剥がしたのだとしたら。
「すぐに次の風読を産めというつもりはない」
さすがの阿蘇津彦も、歯切れの悪い口調になった。
「義憤に駆られる者たちに、其方を罪するのは民の務めではないと納得させたい」
そう聞いても、とても安心する気になれなかった。螺良が訪われていないことが、あれほど早くに知れ渡ったのだ。御妻という立場だけが与えられても意味はない。鞠智彦が夕星を訪い、身籠らせなければ彼らは納得しない。
打ちひしがれた夕星は、口を慎む理性も失っていた。
「護りを引き離して殺め、私のことは手籠めにするつもりだった」
「護りを殺めてはいない。鞠智彦の本意でもない」
顔を上げて阿蘇津彦と鞠智彦とをねめつけたとき、頬を熱い感触が撫でた。自分が泣いていることに気づいたのは、ほとんど叫ぶように言ってからだった。
「信じる理由など、どこにもない――其方たちなら私の命など、簡単に弄べる」
感じたことのない怒りが胸を席巻した。言葉の代わりに、渠帥者たちを睨む目から途切れることなく涙が落ちた。自分がこれほどの怒りを持てるとは知らなかった。このまま身体が張り裂けてしまいそうだ――いっそのこと、そうなればいいのに。
螺良の物憂げな横顔を見るのは、何度目だろう。
考えるともなく考えながら、梓は同郷の姫を眺めた。虚ろな双眸が、おもむろにこちらを向く。
「では、鞠智彦殿が朝霧を訪うと」
「そう聞いております」
ひどく居心地の悪い思いで、梓は答えた。日に日に憔悴していく朝霧の様子を目にするのは辛い。彼女に隠れて螺良に状況を伝えるのも同様だった。
ただ、誓約の夜の打ちのめされた螺良を見て、力になりたいと思ったのは事実だ。祝言から数夜も経たずして、彼女の誰より慕う夫が、朝霧を抱きしめるのを見てしまったのだから。
その場に居合わせた梓は、恐れていた事態を目の当たりにして黙するしかなかった。鞠智彦が朝霧を遠乗りに連れ出したとき、何かあるとは思った。しかし、あれほど強い想いを抱いていたとは。
数年前に館へ出仕して以来、梓は渠帥者の祝言で螺良と再会するのを楽しみにしていた。幼いころは毎日のように一緒に遊んでいたから。あのときは、彼女と許婚との間がこんなことになるとは思いもしなかった。
木葉から連れてきた侍女を通じて、梓は螺良から、朝霧の様子を教えてほしいと頼まれた。最初は純粋な心配からだった。自分を助けてくれた娘が虜になり、螺良は心を痛めていた。梓は了承した。
だが誓約からしばらく経った夜、呼び出された梓が語ったのは、朝霧が鞠智彦に想いを寄せていないはずだという根拠だった。誰かはわからないが、寝所を訪ねて話し込んでいる者がある。だから螺良が気を揉む必要はない、と言った。
それを、訪いに来た鞠智彦が耳にした。螺良は彼が自分を求めに来るとは思わず、梓を夜に呼び出していた。
激高した彼はその足で夕星の寝所に向かい、逢瀬を目撃してしまった。相手は鞠智彦を斬った武人だったという。その者は追放され、朝霧は熊襲の人々の非難に直面している。
「義憤を覚える者がいるのは、致しかたない。鞠智彦様を斬った者ともなれば」
淡々と告げる螺良の面は、驚くほど凪いでいる。
「朝霧はどうしている」
「ひどく気落ちしているので、私の他にもう一人目付がつきました」
自害させないためだ。螺良が自嘲するような笑みを浮かべた。
「訪いがないことを嘆く者もいれば、訪われることに打ちひしがれる者もいるとは」
答えかねる梓に対し、螺良はすぐに言葉を継いだ。
「朝霧が訪われた時や、様子が変わったときは教えてほしい」
「はい」
梓は頷いた。さがってよいと言われて、螺良の寝所を辞した。
もう一人の目付を残した朝霧の寝所――渠帥者の目が行き届くよう、館のはずれから彼らの近くに移されていた――に戻る。その途上で、阿蘇津彦に呼び止められた。
「梓」
「はい」
「頼みがある」
このところ彼の指示は心が重くなるものばかりだ。無意識に身構えつつ答える。
「何でございましょう」
「近く鞠智彦が風読を訪う。夕餉の白湯にこれを」
麻の端切れに包んだ何かを、阿蘇津彦は差し出した。受け取って中身をあらためると、白い丸薬が一粒あった。
「少しは恐れが和らぐだろう」
言った阿蘇津彦の顔を、梓は遠慮がちに見やった。
彼の身体は男でも女でもない。あるいはそのどちらでもあるという。だからなのか、どこか女の心を解しているところがあった。戦勝に任せて、兵員が土地の女を襲うのを嫌うことなどはその一例だ。幼いころ、誓約で集まったよその子どもに襲われかけたからだと噂に聞いた。
「承りました」
梓が言うと、阿蘇津彦は頷いた。
幸い丸薬に、味はなかったようだ。朝霧は白湯に溶かされた何かに気づかなかった。




