十七 別離
泣き腫らした目で寝床から起き上がった夕星は、現れた梓の強張った面持ちを見て息をついた。昨夜の出来事はすべて本当に起こったことで、今日葉隠と別れなければならない。
曙光の中で、梓は硬い表情で告げた。
「間もなく七滝が迎えに来るとのことでございます」
あいわかった、と呟いた後に夕星は尋ねた。
「どこまで聞いている?」
夕星が誰かと話に興じていることを、渠帥者に伝えたのは梓だろう。ただ、それを手掛かりに渠帥者が掴んだ背景を、彼女はどこまで知っているだろう。
ひどく言いにくそうに梓は答えた。
「朝霧姫には姿のない護りがついているが、渠帥者が迎え入れるのは風読だけだと」
「そう」
鞠智彦の腕を奪ったのが葉隠だということは、暴露されていないらしかった。
七滝がやって来たのは、薄紅の天に片割月が掛かるころだった。棚引く雲が空を覆っていたが、あたりには昨晩の嵐が遺した木の枝葉が散っている。
寝所を出て、丸木の柵に門の開いた広場に辿り着く。まだ燃えている篝火の脇に、鞠智彦と阿蘇津彦が立っていた。
「護りの姿を見せよ。本当に出て行くか、見届けられるように」
阿蘇津彦に命じられ、夕星は虚空に言った。
「葉隠」
その場に音もなく、葉隠が現れた。白皙の肌に、一筋の乱れもない射干玉の髪、優雅な目元は、同じ武人でも鞠智彦と対極にある。袖のない、いっそ粗末な衣を纏っただけの彼は、相貌に浮かんだ深い憂いのためか優美にすら見えた。
弓弦のこすれる音がして、夕星はそちらを見やった。七滝が丸木の弓に矢を番えている。
「何を――」
夕星が言い募ると、阿蘇津彦がすぐさま遮った。
「お前が命に従うよう期するためだ」
あくまで牽制のためということらしい。
「玉を渡せ」
鞠智彦が冷然と言った。阿蘇津彦もうなずく。何度握りしめても冷たい勾玉を、夕星は掌に包んだ。葉隠に向き直ると、彼は凪ぎ切った面持ちでこちらを見据えている。
「どうか」
短い一言に促されるまま、夕星は葉隠に手を差し出した。葉隠もしなやかな腕を差し伸べ、掌を開いた。
ああ。
この白いたなごころに勾玉を載せたら、彼と自分を結んできたものが絶たれてしまう。
背後で七滝が、弓弦を引き絞る音がした。
「早くしろ」
鞠智彦が急かすと、葉隠もうなずいた。さらに苛立った鞠智彦の気配を感じながら、夕星は葉隠の手に勾玉を置いた。指が白い石から離れるのを一瞬躊躇ったとき、長い指が強く夕星の手を包んだ。
そのまま腕を引き寄せられ、肩を抱かれる。武人にしては華奢な体躯は、夕星の身体を包むには充分すぎるほど逞しかった。耳元に唇を寄せた葉隠が、短く囁く。
「どうか無事で」
言って彼が額に口づけたとき、七滝の弓弦が軋んだ。その刹那、夕星をゆるやかに突き放した葉隠を一矢がかすめる。矢羽根が空を切る音とともに、葉隠の腕から鮮血が迸った。彼が館の門へ駆け出すと同時に、七滝が次の矢を番える。
再び弓を引いた七滝の前に、夕星は立ちはだかった。思わぬ動きをした風読から鏃を逸らすのが遅れ、驚いた七滝の手から弓弦が離れる。今度の矢は、夕星の右腕の古傷をかすめていった。かつて宇土で射られた場所だ。
三本目の矢を番えようとした七滝を、鞠智彦が止めた。
「良い――最初の矢は当たった」
落ち着いた口調から、すべて彼の指示だったと悟る。鞠智彦の眼は静かに、爛々と滾っていた。
門の外を見やると、球磨の里へ走っていく後ろ姿が見える。よろめくように足を踏み出した夕星の腕を、七滝が掴んだ。同時に、髪に編み込まれた色紐が熱を帯びた。
葉隠の姿は、まもなく朝霧にかすんで消えていった。
腕の激痛を堪えながら、ひたすら走った。骨は無事だが、細くはない血道が切られたらしく、血が止まらない。跡を残し続けながら走るのは気が引けるが、追っ手がかかっているかもしれない以上、走るしかなかった。
眠りに沈む球磨の村々からは、物音ひとつしない。静まり返った一帯を南へ抜け、川べりに倒れこんだ。
草原に這いつくばった身体は重い。何年ぶりかに取り戻した肉体は、痛みと疲労をもって存在を訴えていた。
すでにかなりの血を失ったようだ。勾玉を握る手にも力が入らないことに気づき、自分の迂闊さを呪う。早くに止血するべきだったかもしれない。いまとなっては遅いが。
夕星と別れてまでながらえたのに、これでは死に切れない。思っても身体が動かなかった。曇り空が微かに明るくなる中、雨の音がした。このまま死ぬときには、風が吹いていてくれないかと願った。
出しぬけに声がしたのは、鳥の羽音が響いたのと同時だった。
「その傷でここまで逃げて来られるなんて、月読の裔はたいそう頑健ね」
聞き覚えのある声に、葉隠は目を細めた。顔だけを動かしてあたりを見回すと、近くのみすぼらしい立ち木に烏が止まっていた。人影はない。
記憶の彼方からその名が出てくるまで、しばらくのときを要した。
「――台与殿」
「憶えていてくれて光栄だわ」
東雲の中、烏がはしゃぐように羽を広げた。その輪郭が、視野の中で霞む。
「私がどうやってここに来たかは、後で話すわ――急がなければならないから。貴方に、智鋪の臣下になるよう求めに来たの」
天を仰臥しながら、葉隠は眉を顰めた。あまりに唐突な話だった。
「突然だけど、よく考えてほしい。このままなら貴方は息絶える。でも智鋪の臣下として仕えるなら、命を助けると約束する」
どういう理屈で言っているのか、まるでわからない。だが澄んだ声には一切の迷いがなかった。
「互いに離れてまで長らえようとした命でしょう。このまま尽きてしまうのは、熊襲の渠帥者に屈するようで悔しくはない?」
台与の言うとおりだった。夕星は彼を道連れに死ぬことを選ばなかったし、葉隠も望まなかった。だから、いまや一体にも思える彼女と、離れてでも生きることを決めた。
もとより自分は夕星と同じく、国も民も持たない神の裔に過ぎない。ならばどこでどう生きようと、彼の行く手を阻むものはない。夕星と敵味方になることは避けたいと言うだけだ――鞠智彦と闘いたい気持ちはあったけれど。
「智鋪の武人となれば、熊襲と刃を交えねばなりません」
「朝霧その人を斬ることはないわ。むしろ、渠帥者と刃を交えるのは本望ではなくて?」
思ったことを言い当てられ、葉隠は自嘲ぎみに笑った。夕星だけでなく自分もまた、大国に翻弄される定めから逃れられないようだ。
「貴方の強さとこれから挙げる手柄に則って、他の臣下と同等に遇することを約束する」
東の空を朝焼けが染め始めた。それがあまりに眩しくて、葉隠は瞼を閉じた。
答えは、決まっていた。




