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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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十六 決断

「渠帥者の腕を奪った者を、見逃すわけにはいかぬ」


 かつて連行した夕星を詰問した間で、阿蘇津彦は言った。刺青に縁どられた双眸が、揺らめく灯心の明かりに浮かび上がっている。その瞳に見据えられながら、夕星は頷いた。


「ただ、風読を手放すつもりはない。熊襲のため、風だけは読んでもらわねば困る」


 彼は悩ましそうにため息をついた。阿蘇津彦の脇には、烈火のごとく怒り狂った鞠智彦が無言で座していた。葉隠が何者か、夕星がなぜ大王の影になったかを語るあいだも、彼はひと言も発しなかった。


「意味は分かるな。あやつは去り、お前はここに残れと言うことだ」

「それは叶わない」


 答える自分の声が、ひどく遠くから聞こえる気がした。


「私と護りとは、切り離すことができない」

「できるぞ」


 あっさりと言った阿蘇津彦に、夕星は眉を顰めた。


「護りが結びつけられているのはお前ではない。月読の裔が受け継いできたという、その勾玉だ」


 不意に胸元の勾玉が冷たく感じられた。確かに勾玉を受け継いだと同時に、夕星は葉隠の主になった。それは確かだが、阿蘇津彦の言うことを認めたくなかった。


「しかし――」

「顛末を聞いてわかった。護りを繋ぎとめているのは、勾玉の主という立場だ。ならば、護り自身がぎょくの持ち主となればよい。お前が勾玉を渡せば、そやつとは切り離される」


 阿蘇津彦は静かに言い放った。葉隠が自分のもとを去る――ありえないと思っていた筋書きが現実味を帯び始め、心がさらに暗くなった。


 何より、元からそれがわかっていれば、勾玉を彼に返した上でふたり脱走することができたはずだ。自分が命を落としても、葉隠だけが生き残る道はあるとわかっていれば。


 夕星の顔が歪むにつれ、鞠智彦が一層刺すような目でこちらを見る。気づいていても、気にする余裕もなかった。


「護りが去るなら、私も熊襲を去る。智鋪でも、秋津洲でも――最も厳しく私を罪せると思うところに追いやればいい」


 間髪を入れずに阿蘇津彦が否んだ。


「ならぬ。お前が熊襲を去るなら、行先は黄泉だ。護りとともにな」


 反駁しようとして唇を開いたものの、言葉は出てこなかった。

 葉隠とともに去ることは許されない。唯一、死によってしか。それはつまり、葉隠を殺めてしまうということだ。


 どう転んでも、二人で生きることは叶わない。


 熊襲でひとり生きることは考えられなかった。今度こそひとやに閉じ込められ、風読のためだけに生かされることになる。


 ならば二人で黄泉に行ってしまいたいと思えるほど、葉隠の命を軽々に扱うことも無論できない。がんじがらめになって呆然とする夕星を見て、阿蘇津彦は鼻を鳴らした。


「本来なら、日の巫女の死を伝えなかったお前に枷鎖をはめてやりたいところだ。だが、悲観して舌を噛んで死なれても困る」


 彼の言うことはもっともだった。熊襲に仕えると言いながら、彼らの有利になる報せを隠していたのだから。あまつさえ、鞠智彦の仇敵である葉隠を匿った。

 でも少なくとも後者に関しては、二人に明かす選択肢はなかった。


「もし黄泉に行くのを選ぶのならそう言え」


 吐き捨てるように阿蘇津彦が言った。


「私が熊襲に残ったところで、風読を告げなくなったら――」


 精一杯の抗弁は、阿蘇津彦に脆くも打ち砕かれた。


「何を言っている。ならばどこぞの男の伽に差し出してやるまでだ。あの護りが弟にしたことが明るみに出れば、民草の誰かが何も言わずとも襲いに来るだろうしな」


 そうなっては、やはり葉隠の命は遠からず喪われてしまう。


 級長戸辺の裔は、なぜ女にしか生まれないと決まったのだろう。夕星は自身の境遇を初めて呪った。


「あやつの目の前でしとねに組み敷かれるより、離れたほうがましだろう」


 阿蘇津彦の口調は、今までと違っていた。以前は、智鋪への鬱積した感情や苛立ちを夕星に重ねることはあっても冷静だった。落ち延びた先の智鋪に仕えたのは必然の成り行きだと、どこかで思っていたかもしれない。しかし、弟の腕を奪った若者を庇い、大王の死を隠していた夕星を、今や明確な敵と見做していた。酌量の余地は微塵もない。


 だからと言って、彼の命令に納得できるわけではない。命綱と思っていた風読の力だったが、渡せるものなら誰かに渡したかった。


「お前のやることはわかっている。どの道、玉を阿蘇の灰に捨てることを選ぶだろう。そうすれば、あれと揃って黄泉へ行ける」

「月読の神宝を、火の山に打ち捨てるなどありえない」


 強い語調になった。途端に戸外の風が強まり、夕星は首から提げた勾玉を握りしめた。胸のなかに風が吹く――宇土洲うとのしまの、あの夜のように。


 風読は風を呼ぶ。


 なぜ今まで、この力を使わなかったのだろう。風読であるゆえに自由を奪われるなら、風の力で軛をはぎ取ればいい。唸る風が館を取り巻き、阿蘇津彦は眉を顰めた。外から吹き込む風に、彼の髪が煽られる。


「何をしている」

「私を放たなければ、風が荒れ狂う」


 逆巻いた雲から天を裂くように稲妻が駆け、地上にいくつも落ちた。鞠智彦が天上を眺め瞠目する。雷鳴の轟き渡るなか、阿蘇津彦が叫んだ。


「熊襲じゅうを風で荒らしたいなら、やってみるがいい。螺良をお前と同じ、国も民も喪った姫にしたいのなら――あやつの夫の心に加えてな」


 夕星は逡巡した。迷いに呼応するように風が弱まる。


「あるいは、智鋪に嵐を送り続けるなら、お前と護りを生かしてやってもいい。新たな日の巫女と戦う覚悟があるならな」


 それは台与と対峙しろと言うことだ。同時に、罔象みつは姫の面影が脳裏をよぎる。あの子のように、傷つきすべてを喪う者を生み出せと言われるなら――


 躊躇った瞬間、阿蘇津彦の呪力に抑え込まれた風が急速に凪いだ。同時に、髪に編みこまれた色紐が燃えるような熱を帯び、夕星は頭を抱えて蹲った。髪の焦げるにおいが鼻を突く。


「そうでなければ刺し違えてでもお前の息の根を止める。新たな風読を得られなくてもな」


 阿蘇津彦の琥珀の眼がぎらつく。


「勾玉を捨てはしないと言ったな。ならば俺と鞠智彦の前で、じかに玉を渡せ。あやつが球磨を去るのを、この目で見送ってやる」





 七滝に腕を掴まれ、寝所へ戻った。身を切られる思いがしながらも、その言葉はごく自然に声となった。


「護りの任を解く」


 悔しさが胸を衝いた。自分は葉隠に、何をしただろう。いつもじっと留まることを強いただけだ――智鋪にしろ、熊襲にしろ。そしてそれは、結局穏やかな暮らしを得ることにつながらなかった。大王の館から逃げた時、ただ耐えるだけでは何も得られないと悟ったはずだったのに。


 葉隠が反駁する前に、夕星は言葉を継いだ。


「其方にはながらえてほしい。何があっても」

「夕星様――」

「ずっとそばにいて、護ってくれたから。同じことが其方にできなくて済まない」


 細心の注意を払って彼を護るべきだった。なのにこれからできることは、彼との絆を断つことだけだ。


「其方と暮らしたかった」


 しばらく、躊躇うような沈黙がおりた。胸がこの苦しさに裂けてしまえばいいと思ったとき、穏やかな声が静かに告げた。


「智鋪を出たときと同じです。私はどこへでも参ります。――智鋪でも、熊襲でも、どこであっても」


 まだ迷いを残した声が、悩んだ末の考えであることを告げていた。それでも、諭すような語調は今までになく優しい。


「中つ国のいずこでも、級長戸辺命しなとべのみことの立てた風が吹いている限り、貴女とともに在れる」


 かつて彼の兄が言ったことを、葉隠は言った。途端に朱鷺彦への申し訳なさが込み上げた。自分は、彼がしたように彼の弟を護ることができなかった。何と言って詫びればいい。


「貴女が黄泉に行くことだけは、あってはなりません」


 夕星はかぶりを振った。それは彼のほうだと伝えたくても、言葉は出てこなかった。唇を開いた瞬間に、慟哭が喉を突いてしまうとわかっていた。


 戸口に下がった薦のわずかな間隙から、月明かりが音もなく注いでいた。


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