十五 暗転
葉隠の様子が変わった。自身の存在が明るみに出ないよう注意を払っていた彼が、にわかに警戒をおざなりにしはじめた。
誓約の次の夜、葉隠は何の前触れもなく姿を現した。衛士は広場の片づけに駆り出され、現れなかった。西の空に沈む間際の月明かりの中、夕星は外廊に立つ彼を目にした。
「葉隠」
驚きよりも、感極まる気持ちのほうが強かった。駆け寄った夕星を、しなやかで逞しい腕が強く抱き寄せる。彼が大けがを負ったあの夜以来、初めて触れることができた。
鞠智彦に抱きすくめられたときも、胸は高鳴った。しかし葉隠の腕の中では、甘く穏やかな熱に浮かされるような感覚がある。身体の快い疼きに、夕星はいつまでも翻弄されていたかった。
一方で、抱擁に酔うなかでもよぎる不安があった。まだ日は沈み切っておらず、梓がいつ現れるやも知れなかった。
「誰か来るかもしれない」
呟くと葉隠は、夕星の髪に顔を埋めるようにしながら、小さくかぶりを振った。
「大事ありません。それよりいまは――」
途切れた言葉の先に何があるか、言われなくてもわかった。一層きつく身体の輪郭に沿う腕に、夕星は自ら重みを預けた。底の知れない安堵が心を満たしていく。
葉隠の声がどこか苦しそうで、焦りがあることに、気づかなかったと言えば噓になる。だが、長らく叶わなかった再会を果たしたことで、警戒の箍が弛んでいた。
月が間もなく沈んだため、葉隠の姿は見えなくなってしまった。高揚に満たされたまま、夕星は眠れない夜を過ごした。翌日もその翌日も衛士は来ず、葉隠と会うことができた。
月が出るなり姿を現す彼は、月の許す限り本来の姿でいようとした。鞠智彦の告白が葉隠を変えてしまったことは間違いなかった。用心するべきだと伝えても、聞く耳を持たない。人が現れる前に姿を消すから心配はない、と。自身も嬉しかった夕星は、それ以上強く諫めはしなかった。
「このところ、お綺麗になられたようですね。慕う方ができたのですか?」
ある朝梓に問われたけれど、夕星は相手をまじまじと見つめてからかぶりを振った。
「虜に色恋のきっかけなどない」
静かに言うと、梓はしばらく黙った後にうなずいた。どことなく浮かない様子だった。
「すみません。妙なことを訊いて」
「ううん。元気がないようだけど、何かあったのか」
ここ数日浮かれた雰囲気だったろうかと振り返りつつ、夕星は話題を逸らした。梓は小さく苦笑した。
「私に何かあったわけではないのです。ただ、ここのところ館がざわついておりまして」
夕星は首を傾げた。
「何かあったのか」
「いえ、特段。ただ、螺良様の侍女が神経を尖らせていて。炊屋で今朝ぶつかってしまったら、こっぴどく怒られました」
「螺良様の?」
呟きながら、嫌な予感が胸をかすめた。
「鞠智彦様が、お出ましにならないらしいのです――もちろん侍女はそんなことを申しませんけれど、心配のあまりつんけんしているものですから」
返す言葉が思いつかなくて、夕星は黙り込んだ。その原因が自分以外にあるだろうか。梓が続けて言う。
「鞠智彦様は務めがお忙しいのでしょうけれど。でも螺良様の夫になったことも、思い出していただきたいものです」
そんな話を聞いたからか、その宵も葉隠は日暮れと同時に現れた。
「ここを出る手立てを考えるべきです」
日に日に声を潜めることもなくなった彼は、思い切ったことを口にした。口調から、何日も考えてきたのであろうことはわかる。高床の廊下のふちに並んで腰掛け、夕星は彼の愁いを帯びた顔を見上げた。
「焦っては危険だ」
言い聞かせるように言うと、葉隠の涼しげな目がわずかに曇る。なぜわかってくれないのか、とかすかに苛立つように。
「しかし、このままでは――あの者の手がいつ貴女に伸びるか。螺良殿との祝言も、何ら解決になっていないのですから」
葉隠が鞠智彦への懸念を示すたび夕星は、螺良が輿入れすれば事態は変わると言い続けてきた。その見立てが誤っていたことは確かだ。だが、夕星の躊躇いにも根拠がある。
「もう一人の渠帥者がいる限り、熊襲は風読の力を手放さない」
せっかく手に入れた風読を、阿蘇津彦は手放さないだろう。言い換えれば、風が読める限りは阿蘇津彦が夕星を守る。少なくとも都の整備や、阿蘇への帰還を期する間は。
「其方に会えるうちは、ここにいたほうが良い」
想いが通じても葉隠に会えないことに、以前は歯がゆさがあった。しかし彼が姿を現せてからは、危うい状況に飛び込むことに逡巡した。何かあったとき、自分だけが生き残ることはあっても、彼だけが生き残ることはありえない――そう思うと、賭けに彼を巻き込むことができない。葉隠は、夕星が脱出に乗り気でないことに焦りを募らせているようだったが。
「夕星様」
焦れたように彼が呼んだとき、誰かの足音がした。
「隠れろ」
囁きが終わるか終わらないかのうちに、葉隠は姿を消した。梓の軽い足取りでも、阿蘇津彦のせっかちな足運びでもない。鍛え上げられた武人の足音だった。
咄嗟に立ち上がり、音のしたほうを見やる。視線がかち合った双眸は、平静を装った夕星の動揺を見抜いたようだった。
「誰と話していた」
緊迫した声が問う。怒気と、信じたくない気持ちとが入り混じった、鞠智彦らしからぬ語調だった。答えた自分の声は、ひどく白々しく聞こえた。
「誰とも」
「確かに声がした。どこに消えた」
閨に足を踏み入れ、鞠智彦はあたりを見回した。当然、誰もいない。彼を追ってきた夕星に向き直ると、怒りの滲む声で問い詰めた。
「俺をたばかったのか」
かぶりを振った夕星を、彼は戸口の脇の壁際に追い詰めた。背中を壁につけながら、夕星は言い募った。
「違う」
「ならば誰と話していたか言ってみろ」
「誰とも」
「誰に会えるうちは、ここにいた方が良いと言ったのだ」
葉隠との会話を聞かれている。射るような彼の眼差しを、夕星は言葉もなく受け止めた。
「誰と話していた――誰と通じていた!」
肩を掴んで揺さぶられ、たまらず夕星は目を逸らした。逃がすまいと訴えるかのように、鞠智彦の万力が肩を締めつける。
頑として口を開かずにいると、にわかに鞠智彦が微かに息を呑んだ。反射的に彼を見上げると、軽く見開かれた目が彼自身の首元に――刃の当てられた肌に向けられていた。
月明かりの射す戸口の脇に、葉隠が立っていた。いつの間に引き抜いたのか、鞠智彦の腰帯に挿されていた短剣を突きつけている。
「風読から離れよ」
冷徹な声が告げると、鞠智彦はさらに瞠目した。
「手を放せ」
刃がさらに、浅黒い肌にめり込んだ。夕星の肩を掴んでいた力が弛み、身体を離れる。
「何者だ」
鞠智彦に問われても、葉隠は答えなかった。夕星は囁いた。
「もういい、控えよ」
「先ほど話していたのはこやつだな。何者だ」
ふたたび渠帥者の矛先が夕星に向かいそうになると、刃に込められる力は強くなった。短剣の先端に、血の赤い珠が滲む。
「やめるんだ」
鞠智彦を隻腕にした彼が姿を現すのは危険すぎる。焦る夕星を、怒りに滾る眼で鞠智彦が見据えた。
「何者だ」
「頼む。刃を収めろ」
切実に言うと、葉隠は短く言った。
「さがれ。級長戸辺の娘から離れよ」
鞠智彦が半歩さがると、ようやく葉隠は姿を消した。短剣が床板に落ちる音が響く。
「あれは何者だ――見覚えがある」
鞠智彦が言った。最早、知らぬ存ぜぬは通じない。混乱しながらも口を開きかけたとき、戸口の向こうに立つ人物が目に入った。
「何かと思って来てみれば――」
呆れたような顔をした阿蘇津彦だった。苦虫を嚙み潰したような面持ちでため息をついてから、彼は弟に顔を向けた。
「螺良を放って、こんなところで何をしている」
「その螺良の周囲から、風読を訪う者がいると耳にした」
胸を衝かれた心地がした。すでに葉隠との逢瀬は噂になっていたのだ。今さらながら自分の迂闊さを猛烈に悔いた。
「答えになっていない」
阿蘇津彦が呆れたように言い、こちらを見た。刺すような目線を夕星に向ける。
「前から其方の気配は、ひとりのものではないと感じていた。死んだ許婚の魂が纏わりついているのだと思っていたが、まさか本当にもうひとり連れていたとはな」
阿蘇津彦に多くを見抜かれていたことにも、今となっては歯噛みするしかない。もっと強く警戒しているべきだった。
「あれは、日向大王を襲ったときに俺が見た者ではないか。どういうことだ」
厳しい問いに一瞬目を閉じ、観念して夕星は頷いた。
「私が大王の影を務めていたときのことだったから」
阿蘇津彦は怪訝な顔をしただけだったが、鞠智彦は明らかに瞠目した。そして、はたと考え込む。彼の口から出たのは、最も恐れていたせりふだった。
「思い出した。あれは――」
胸が千切れるような焦燥と後悔が、夕星を襲った。
「――玉杵名で俺と斬り結んだ者だ」
今度は阿蘇津彦が目を見開いた。何もかもを暴かれた夕星は、自分の胸が虚になり、冷え切っていく感覚にただ囚われていた。




