十二 婚儀
館の庭で待ち構える群衆の前に、螺良の乗った馬をひいて木葉の老臣が現れると、皆が息を呑んだ。馬上で横ずわりになる螺良の瞳には、溌溂とした憧れが宿っている。炎を縫い取った長衣をまとい、豊かな髪を豪奢に結いあげた螺良は美しかった。鮮やかな紅が、健やかな肌によく映えている。
続いて曳かれてきた馬からは、ささやかな供物が降ろされた。火の山の混乱で里が苦しいこともあり、いくらかの神酒と衣だけが祝へ渡された。
秋晴れの抜けるような空の下、阿蘇津彦がまじないで巨大な庭火を灯す。祝が供物を火のそばへ運ぶ間、螺良は火の脇で待つ鞠智彦のもとへ静々と歩いた。足取りからも視線からも、この日を心待ちにしていた想いが滲み出ていた。
髪を鮮やかな深紅の紐で括った鞠智彦は、厳粛な面持ちで螺良を迎えた。衣や褌の腰帯や足結手結も、目の覚めるような赤である。同じく赤い瑪瑙の石を通した頸珠を、鍛えられた首から提げていた。
弟の脇に立つ阿蘇津彦は頸珠を何連にもつけ、花楸樹の実る枝を襷のように斜めがけにしている。祝が神酒と衣とを火にくべると、鞠智彦が差しだした手に螺良が掌を重ねた。
「これより螺良姫を渠帥者の妻とする」
阿蘇津彦が宣言すると、待ちかねたような歓声が上がり、人々は酒楽へ突入した。一斉に動き出した人並みにまぎれ、螺良のはにかんだ笑顔はすぐ見えなくなってしまった。
脇にいた梓も、いつの間にか消えた。今日も夕星の髪には、まじないのかかった色紐が編み込まれている。だから梓も、目付の役目を気にせず宴を楽しめるはずだ。
人々に背を向け、夕星は館のはずれへと歩き出した。今なら誰にも聞き耳を立てられることなく、葉隠と話ができる。
自分の背に誰かの視線が注がれていることに、夕星はわずかにも気づいていなかった。
祝言から間を置かずして、誓約の日が訪れた。この頃になると、毎日まじないの色紐をつけて過ごす代わり、梓の目付はおざなりになっていた。監視の緩い津奈木で夕星が従順だったためでもあり、祭事が続いて皆が忙しいからでもあった。
夕星にとってはありがたかった。寝所で申し訳程度に声をひそめながら、葉隠と取りとめもない話に花を咲かせた。球磨に戻っても二人で語らえるとは夢のようだった。
衛士も姿を見せない日がちらほらと出てきた。このところ月は昼間に出ていたから、葉隠が姿を現すことはできなかったが、数日待てばそれも叶う。その頃になっても、衛士の目付が緩いままであれば。
虜囚としての緊張感を忘れ、浮かれていたのかもしれない。だからなのか、梓が誓約を見に行こうと言ったとき、強く断らなかった。
「ずっと津奈木に閉じ込められていたのですから、誓約くらい見に行っても悪いことはありません」
熱を込めて語る梓に、夕星は逡巡しながら言った。
「私が館を離れて良いものかどうか――祝言は、渠帥者の命だから出ただけなのだし」
誓約は、館のある高台を下った広場で行われる。館の庭で開かれた祝言とは違った。
「今宵は衛士も皆、誓約の警固につくのですよ。目付の私が誓約の場で、朝霧様についていてもおかしくはありません」
誓約を見たい梓だが、ほぼ無人の館に夕星を残していくのは、役割を放棄するようで気が咎めるのだろう。色紐をつけているのだから、心配の必要はなさそうなものだけれど。
「わかった」
呟くと、梓は目を輝かせた。
「良かった。熊襲でお過ごしになるなら、誓約を見ておいて損はありません。一年を締めくくる祭りですから」
聞けば各地から里長たちが集い、渠帥者にこの一年の報告をしたり、要望を陳情したりするのだという。智鋪の饗の祭祀に似ている。祝言を数日前に執り行ったのは、国じゅうの長たちに慶事を印象付ける意図もあったのだろう。
日が傾くころ、梓は夕星を館から連れ出した。薄紅の陽が照らす中、広場には祝言以上の人混みが押し寄せていた。各里の遣いに加え、球磨の民草も多く来ているという。
広場の中心には一抱えほどもある丸太が井桁状に組み上げられ、油を撒かれていた。人々はそれを取り囲むように群がり、一部は楽や芸を披露しながら儀式の始まりを待っていた。
「何が誓約に掛けられるのだ」
尋ねると、梓は朗らかに答えた。
「毎年、変わります。あまり変わったところのない誓約もあれば、戦果を占うことも」
言ってから梓は不意に明るい声を上げた。
「鞠智彦様と阿蘇都津様がお出ましに」
見れば、積まれた薪のほど近くに二人が姿を現していた。鞠智彦は昨日と同じく黒髪を後ろで束ねており、逞しい首筋が露わになっている。阿蘇津彦はいつも通り、鳶色の髪を短く括っている。
組まれた井桁の周囲で、射手たちが矢を手に取った。阿蘇津彦のまじないで、一斉に鏃に火が灯る。若い祝が松明を虚空に掲げると、皆が火矢を番えた弓を一斉に引いた。
すべての射手が弓を解き放つと、矢は暗闇に弧を描いて薪に注ぐ。炎がじわじわと広がる間にも、射手は燃え始めた次の矢を弓に番えた。
ふたたび祝が松明を振り下ろし、二番目の矢が降り注いだ。最後に三度目の矢が放たれる頃には、最初の火矢が薪を勢いよく燃やし始めていた。
暗い空を照らし出さんばかりに広がった炎は、その熱で群衆を後ずさりさせた。射手たちは去り、炎の脇に控える渠師者と、数名の祝があとに残された。
年取った二人の祝が、燃え盛る井桁に静々と歩み寄る。手に捧げ持った火のない松明をそれぞれ差し入れ、国じゅうで一番大きな焔のかけらを灯した。皆が見守る中、二人は渠師者の前で火を捧げもち、跪く。
最初に足を踏み出したのは阿蘇津彦だった。彼は松明の炎の上に右手を掲げた。閉じられていた唇が、ゆっくりと開かれる。
「熊襲の渠師者より、八十梟師の一座の前にて、火之軻遇突智神の焔に誓する。来る一年の、火の山からの立ち直りと安寧を」
阿蘇津彦は炎に手を差し入れた。夕星は息を呑んだが、周囲の者に動揺はない。微かな緊張とともに、渠帥者の手を見守っている。
阿蘇津彦は痛みに呻くことはなかった。顔色一つ変えない様子から、熱に耐えているわけではないことがわかる。衣の袖が焼けていくのに伴い、体があらわになっていった。火が這ったはずの肌は、焼かれるどころか滑らかなばかりだ。
只人ならざる存在であることを示すのに充分な時が経ってから、阿蘇津彦は手を炎から離し、やけど一つない腕を虚空に掲げた。群衆から感嘆のこもったため息が漏れる。衣の肩には、まだ火影が躍っていた。
この儀式が誓約と言われる意味が、ようやくわかった。渠師者の呟いた言葉が真であれば彼らの手は焼かれず、偽りであれば焦がされる――それを試す儀式なのだ。
結末が決まっていることを知りながら、どれだけの者が誓約を信じているかは定かでない。だが少なくとも群衆は、彼らを率いる者が間違いなく火の神の裔だと確かめることができる。誰であろうと、等しく焼き焦がすはずの炎を証人として。
やがて一歩下がった阿蘇津彦の前から、祝が立ち去った。
今度は鞠智彦が、もう一人の祝の前へ進み出た。固唾をのむ人々の前で、炎に照らされた鞠智彦がゆっくりと口を開く。
「山鹿の国境に戦なく、安穏の地となるよう」
群衆が驚きに息を呑んだ。それはどこか安堵を含んでいる。昨年から続いた戦に、熊襲は疲弊していたのだ。次の一年は新たな戦がないことを知って、使者たちは肩の荷が降りたような顔をした。
鞠智彦が、静かに松明へ手を差し入れる。炎に一切を乱されない滑らかな肌の上で、この日のために誂えられた衣が焼けていった。
火影に浮かび上がる精悍な横顔も黒い瞳も、普段の苛烈さはなりを潜めている。偽りを許さぬ焰に、彼は淡々と身を差し出す火の神の息子となっていた。その姿が纏う微かな昏さに、夕星はしばし目を奪われた。




