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風待つ朔  作者: 丹寧
第一部 風読 月夜見
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二 暗夜

 恐ろしい場所から少しでも離れたくて、夕星は必死に足を動かした。


 空が暁に染まるころ、葉隠が休むよう言った。道のはずれの岩陰に腰を下ろしたものの、眠れる気はしなかった。


 流転に倦み疲れ、死を望んでいたはずの自分が、凌辱と死を前に恐怖した。挙句、人を殺してまで生きのびた。いまはまた、どこへ進んだものかと途方に暮れている。


「葉隠」


 は、と短い応答があった。ぼんやりと朝焼けを眺めながら、夕星は尋ねた。


「人を殺めたことはあるか」


 縋るような声になるのを、何とかこらえた。葉隠が護るべきは夕星の命であって、心ではない。この問いにも、答えてはくれないかもしれない。


 だが、意外にも彼は言った。


「ございます」

「いつのことだ?」

「科戸の谷底で、出雲の追っ手を殺しました」


 淡々とした声は、朝のしじまに馴染んで消えた。


 故郷を追われたのが、遠い昔に思える。まだ二十日も経っていないというのに。


「追っ手の一人は、朱鷺彦様の矢で絶命しました。しかしもう一人は死んではいなかった。その者にとどめを刺しました」

「そうだったか」


 夕星は息をついた。


 あのとき自分は朱鷺彦と葉隠に救われた。そして今回も二人ともに助けられた。朱鷺彦の短剣がなければ(くび)り殺されていたし、葉隠に守ってもらえなかった場合も同じことだった。曙光に目を細めながら、夕星は呟いた。


「すまない。其方に礼を言っていなかった」

「私の主は夕星様です」


 礼を言われるには及ばない、ということらしい。取り乱すことのない葉隠の態度に、夕星はあらためて感謝した。


「ありがとう」


 言いながら、無意識に腰の短剣に触れた。血みどろの刃も柄も、裳で拭うとすぐに元の輝きを取り戻していた。ただの武具ではなく、呪具であることを訴えるかのように。


「前の主は、其方の姿を見たことがあるか」


 朱鷺彦の名を自分から口にするのは、まだ辛かった。


「はい」

「里を出たあの日も見えていたか?」


 少しの間があった。暗い森で、朱鷺彦には彼が見えたのだろうか。なすすべもなく死んでいった彼が、最期に何を見たのか知りたかった。


「私が追っ手を殺めたところは、目にされていたと思います。夕星様の無事を期さねばなりませんでしたから」


 葉隠にしてみれば、何気なく答えたことかもしれない。だが夕星は絶句し、目を閉じた。あの夜彼の言ったことが脳裏に蘇った。


 朱鷺彦は、黄泉で自分を待ってなどいない。


 風さえ吹いていればいつでも夕星に会える、と朱鷺彦は言った。それはつまり、夕星が死んで黄泉に来ることを、彼は望んだりしないということだ。


 だからこそ誰より確実に警固(けご)を果たせる葉隠に、自分を託した。そして自分は、他の誰でもない朱鷺彦が望んだからこそ、落ちのびて生きることを決めた。それは今までもこれからも、絶対に破れない約束であり続ける。


 郷里を出て初めて涙があふれ、夕星は目尻を拭った。それを知ってか知らずか、葉隠はいつになく穏やかな声で促した。


「少しお休みなされませ」


 うん、と夕星は呟いた。


 許婚を喪った悲愴も、人を殺めた事実も、負って生きなければならない。今ここで生きているのは、他ならぬ自分自身だから。これから葉隠と暮らしていける場所を、どこかに見つけなければ。


 だが今は張り詰めた糸が切れたように、何も考えることができなかった。涙の熱で、こごっていた身体が弛んだ気がする。葉隠の言うとおり眠っておこう、と思った。


 行くべき道は、まだ短くはないという確信があったから。





 翌朝は、前夜の出来事が信じられないほど長閑な陽気だった。


 いくらも歩かないうちに、幅広の谷へ降りる道に行き当たった。谷の真ん中を曲がりくねりながら流れる川の両岸を、草原が覆っている。その向こうの広大な平野に、見たこともない数の家々が立ち並ぶのが見えた。


 夕星はしばらく物も言わずその町を見つめていた。一体、どれほどの数の人が住んでいるだろう。


「葉隠」

「は」

「あれほどの町なら、どこから来たか知れぬ者もいるな。生きてゆく方法があるかもしれない」


 沈黙がおりたが、そこに否定は感じられなかった。


「行ってみよう。どのような場所か、わからないけれど」

「御意」


 山をおり、谷底の平地に着くと、葉隠は拓けた道を避け、草原のなかを進むよう言った。若い娘が独りでいれば、人攫いや物取りに狙われるかもしれない。厚く茂った(すすき)で手足は擦り傷だらけになったが、彼の意図が理解できる以上、文句はなかった。


 とは言え、なかなか町に近づけないことに焦りが募ってきたころ、風の感触が変わった。


「雨が降る」


 まだ雲はないが、吹き渡る風は柔らかさを含んでいた。


「夕には降り始めるだろう。町まであと、どのくらいかかる」

「日暮れには着くかと」


 そのころには雨が降り出してしまう。疲弊した身体が雨の夜を越せるとは思えない。夕空の一角を濃い雲が覆い始めると、風はさらに重く湿り気を含んだ。


「夕星様」

「どうした」

「道に出ましょう。今なら人がいません」


 すぐさま道へ出た。町の辺縁に辿りついたのは、ちょうど陽が地平に沈んだ頃だった。同時に雨が降り始め、またたく間に身が凍える。必死に歩いても、雨がしのげそうな軒は見つからない。こまごました掘立柱の家並みが続くばかりで、それが大きな館の群れに変わっても、道沿いには板塀があるだけだった。


 焦りが募った。服も沓も雨を吸って重く、葉隠は何も言わない。ふと薄い闇に舞い降りた影があって、夕星ははっとした。板塀の向こうの立ち木に、何かが止まっていた。


 両翼を広げれば、子どもの背丈ほどもありそうな大鳥(おおとり)だ。獰猛な目に見つめられ、夕星は背筋を震わせた。すぐさま目を逸らし、一目散に駆ける。


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