十一 津奈木
隼人に預けられる背景は理解できたが、より深刻な問題が浮上した。
疲労困憊して寝所に戻った夕星は、ばつの悪そうな梓が持って来た朝餉も喉を通らなかった。
「夕星様」
「何だ」
昼間にもかかわらず、葉隠が声をかけてきた。慎重な彼らしくなかった。
「夢で渠帥者と何を話されたのです」
「想いを打ち明けられて、断った。それだけだ」
簡潔に告げたけれど、葉隠が納得した様子はない。逆の立場なら、自分もこの説明では落ち着かないだろう。もっと言葉を尽くしたかったが、おりしも梓がやってくる足音がした。
「朝霧様」
「どうした」
申し訳なさそうな顔の梓は、夕星の前に膝を突いた。
「たったいま、阿蘇津彦様から言い渡されたのですが――明日、津奈木へ発たれるようにと」
出立が大幅に前倒しになったらしい。気のせいか、葉隠が安心した気配がする。
「支度は間に合いますので、ご心配なく。阿蘇津彦様と七滝のほか、数名がお送りすると聞いております」
夕星はうなずいた。草枕の間はいま以上に、常に誰かと行動を共にすることになる。葉隠と話すことが数日叶わないと思うと、内心ため息が出た。
予想どおり彼とひと言も話さないまま、数日後津奈木に着いた。阿蘇津彦たちは夕星を里長に引き会わせ、その翌日にはさらに南へ下って、隼人の長にも会わせた。
隼人は顔貌に熊襲の民との違いはほとんどないものの、男の長は腕に白の、女の長は茶のまだら模様をした貝輪を着けていた。翡翠の頸珠が、簡素な衣服に比べて妙にきらびやかに映る。
彼らは夕星が風を読むと聞かされて、一様に信じられない表情を浮かべていた。ただし積極的に疑う様子もない。素朴な人々のようだった。
振る舞いだけでなく、彼らの暮らしもまた素朴だった。智鋪より熊襲より隼人の土地は時の進みが遅いようで、田は影も形も見当たらない。そもそも平地が少ないこともあり、耕作は力を入れられていないようだ。
男たちが漁撈へ出ている間、女たちは家の雑事や少ない畑地での耕作に励むという。その静かな暮らしはどこか、故郷の科戸を思い出させた。
隼人にとって、智鋪の干渉が煩わしいのは当然だ。朝貢の負担は彼らには重すぎる。隼人に恩を売る必要はないという鞠智彦の言葉も、どこか腑に落ちた。熊襲の脅威になるほどの豊かさは、この倹しい人々から感じ取れなかった。
津奈木での日々は、思うより早く過ぎて行った。
里長の館は下働きの数も少なく、長夫妻が手ずから夕星の面倒を見ることも多かった。そして彼らは、夕星を厳しく監視する必要をまったく感じていないようだった。
葉隠と話せる機会は格段に増えた。周辺の地理を頭に入れれば風読に資すると阿蘇津彦が伝えたため、たまに近辺に連れ出されることもあった。津奈木の近くだけでなく、隼人側の土地にもよく通った。出先ですら目付は緩かった。
「津奈木に来られて、良かったかもしれない」
隼人の村の浜で、夕星はぽつりと言った。館の下男がついてきていたものの、漁具を手入れする若者と話し込んでいて、夕星のことは見ていなかった。
閨は館の下女たちと同じなので、月影のある夜でも葉隠に姿を現してもらうことはできていない。それでも、日中は人目を盗んで話せる機会が多くなった。
「球磨にいたときより、顔色が良くなられました」
葉隠も穏やかに言った。
彼の声が落ち着いているのは、鞠智彦と離れたためだ。あの朝以来妙に強張っていた彼の気配が、球磨を出た途端に和らいだ。
近くでは子どもたちが、拾い集めた貝を地面の浅い穴に張った水に投じていた。焼かれた石で煮え立つ水の中、貝は次第に開いていく。
「うん。これほど頻繁に外に出られるとは」
翌日津奈木の里に戻ると、長の妻の真砂から宵の天気を訊かれた。彼女から尋ねられるのは珍しいことだった。
「西の雲が掛かってくるから、今宵は月も星も出ない。まだ雲が重くないから、雨はないと思うけれど」
「そうしたら、宵の口から蛍が見られますね。池のほとりまで降りれば、陽が落ちた頃に飛び始めると思いますよ」
真砂は和やかな笑顔とともに言った。自分も見に行っていいという意図だとわかって、夕星はまじまじと相手の顔を見つめた。
「私が逃げると思わないのか?」
訊くと真砂はあっけらかんと言った。
「こんなところで逃げ出しても、里の者でない姫様はすぐに見つけ出されてしまいますよ」
確かに、球磨と違って人の少ないここでは、よそ者が自由に動き回ることは不可能だ。すでに夕星の存在や外見は里じゅうに知れ渡っている。
「阿蘇津彦様のまじないもございます。このうえ私どもが姫様を締めつける甲斐はございません」
そう、とだけ言って夕星は大人しく髪を結われていた。阿蘇津彦がまじないを仕込んだ色紐は、これまでのところ熱を持つことはなかった。
「ただし真神にはお気を付けくださいませ。獣の声がしたらすぐにお戻りくださいね」
近くに狼の群れがいると、夕星も聞いたことがあった。
「気を付ける」
夕刻になると下働きのみならず、真砂たちも外へ出た。小高い丘の上の館から低地にある池のほとりへ下っていくと、里の者たちがそこかしこにいた。
暮れなずむ水辺に、人が集まっている。黄昏にうっすらと見える里人の顔は期待に満ちていた。真砂夫妻も、池に着くと早々に夕星からも下男下女たちからも離れて行った。
思い思いの相手と連れ立って陣取る里人から離れ、夕星も下草を掻き分けて歩いた。地上に頭を出した岩に腰を下ろすと、魚が水面を揺らす音がした。陽は瞬く間に暮れて行く。西の空に日が沈むと、間もなく蛍が飛び始めた。
闇に黄緑色の光が明滅し、ふぞろいな軌跡を描いては消えて行く。灯り始めたひとつ、ふたつの光に見惚れていると、蛍はみるみるうちに増え、やがて池の周りを覆いつくすまでになった。
微かな夜風に下草が揺れる。夜陰に紛れ、人の耳を憚りながら囁きかわす声が聞こえた。そのどれもが親密で、当人にしかわからない温みに満ちている。
一面に広がる蛍の光と水の香りは幻のようだった。初めての光景に胸が躍りつつも、自分も葉隠のかたわらでこれを見られたら、と思う。
「葉隠」
顔の前にも無数の蛍が飛び交っていた。その光の糸の中に呼びかけても、返事はない。
代わりに、近づいてくる足音が聞こえた。まさか、と有り得ない期待が脳裏をよぎる。月のないいま、彼は姿を現すことができない。ならば誰がやって来るというのだろう。
恐るおそる振り返った先には誰もおらず、夕星は緩やかに落胆の息をついた。手に何かが触れたのは、そのときだった。
獣の硬い毛並みだ。一瞬身を強張らせたが、毛並みの主は柔らかに身体を押し付けるだけで、敵意は感じない。触れられた手に目をやると、ほのかな緑の明かりに照らし出されたのは、立派な真神の輪郭だった。その双眸は静かに夕星を見上げている。
「葉隠」
呟いて夕星は、真神の頭を撫でた。彼の意図は、言われなくてもわかった。自身の姿で現れることはできない代わりに、獣の姿で現れてくれたのだ。
一方で、いまの葉隠は声を失っている。だから夕星は、問わず語りに言った。
「この暮らしが、いつまでも続けばいいのに」
そうなりそうにないことは、夕星もわかっていた。阿蘇津彦は本来、新しい都である球磨のために風読を要していた。鞠智彦の祝言が済み、弟の恋情が落ち着いたら夕星を呼び戻すだろう。
「ここなら其方と言葉を交わせる。其方自身に触れることは叶わなくても」
言うと目頭が熱くなった。球磨よりずっと、話のできる時間が増えたことが嬉しかったはずだ。なのに姿を見たいという渇望は以前より強かった。
「いつか、連れ立って蛍を見られたらいい」
暗いばかりの空を、夕星は見上げた。そうしていれば涙は溢れなかった。
秋も終わる頃、球磨から迎えが来た。
夕星がまた津奈木に来ることはあるのか、長はかなり食い下がって阿蘇津彦から言葉を引き出そうとした。阿蘇津彦は、隼人との成り行き次第だとして明言を避けた。
「随分好かれていたようだな」
帰途に就くと、馬上で阿蘇津彦が揶揄するように言った。夕星はそれには答えず、気になっていたことを尋ねた。久々に会ったことで妙に緊張し、一歩引いた口調になった。
「螺良様の祝言は、滞りなく終わったのか」
すでに晩秋に差し掛かろうとしていた。農事が終わり、祝いや祭りが進められていておかしくない。 ところが阿蘇津彦は首を左右に振った。
「まだだ。三日後に誓約と続けて執り行う」
思わず表情を曇らせた夕星を見て、阿蘇津彦は低く言った。
「螺良が望んだことだ。其方の前で祝言を挙げたいと」
彼女はまだ、鞠智彦の心中に気づいていないのだろう。夕星を冷遇しないよう、義兄に訴える意図もあったかもしれない。しかし、夫となる者の真意に気づいたとき、どれほど落胆しなければならないか。
「其方はあくまで虜だ。末席で螺良の晴れ姿を見たら、とっとと下がれ」
「むろんだ」
阿蘇津彦としては、螺良の意向を無碍にしたくない。そのことは、球磨にいた頃からおりにふれ伝わってきた。国境にある木葉との関係を重視したいのに加え、二人には相通ずる何かがある。
阿蘇津彦は無言で馬を急かした。夕星の背後の七滝も、主について速足で馬を駆った。




