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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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十 事情

 翌朝梓は、朝餉よりはるかに早い刻限に閨へとやって来た。揺すられて薦から身を起こした夕星は、寝ぼけ眼を瞬いた。


「何かあったのか」

「ええと――とにかく、すぐにお出になってください」

「津奈木へ発つのか?」


 梓はすぐさまかぶりを振った。


「そうでは、ないのですが」


 首を傾げながらも慌ただしく着替え、急かされるまま外廊に出ると、七滝ではない下男が待ち構えていた。ますます訝しく思っていると、厩へ着いて言葉を失った。


「来たか」


 馬の手綱を手に待っていたのは鞠智彦だった。呆気に取られる夕星に向かって、鞠智彦は顎で馬の背を示した。


「乗れ」


 有無を言わせぬ口調に圧され、夕星は下男の膝を借りて騎乗した。


「一体、どこへ」

「決めていない」

「は?」


 自身も馬の背に跨ると、鞠智彦はすぐさま馬を駆った。何かを尋ねる間もなく、夕星は疾駆する馬に揺られるだけになった。速足で東へと向かう馬上で、阿蘇の山並みの向こうの白みはじめた空を見た。今日は噴煙が上がらず、天は澄んでいる。


 先日来た黒髪という里の川辺で、彼は馬を止めた。抱き下ろされるときに見てみれば、鞠智彦は武器をひとつも帯びていない。従者もなく、夕星にまじないの枷をつけるでもない、きわめて無防備な状況だった。


「どうした」


 夕星の驚いた顔にすぐさま目を止めて、彼は尋ねた。


「武具がない」

「要らぬ」


 短く言い捨てると、鞠智彦は手綱を掴んで歩き出した。川岸で馬に水を飲ませ、近くの木に手綱を括りつける。夕星が突っ立っていると、傍に来るよう顎で示した。


「俺が恐ろしいか」


 一瞬躊躇った末に、夕星はかぶりを振った。かつて夢で見るたび怯えていたのが不思議なほど、恐怖はなかった。


「ならば阿蘇津は偽ったのだな。其方が俺を怖れていると言い、近づけなかった」


 どうやら要らぬことを言ったらしい。内心歯噛みした夕星をよそに、鞠智彦は続けた。


「挙句に津奈木へ行かせるという。その必要もないのにだ」


 夕星は慎重に口を開いた。今なら彼から、隼人のもとへ行く背景を聞き出せそうだ。


「兄君からは、隼人に恩を売るようにと聞かされたのだが」

「言っておくが、津奈木は熊襲の土地だ。其方が里長に風読を伝え、長が隼人たちに報せをしてやる。暮らしを助けてやることで、あれらを味方にしたいらしい。智鋪が攻めてきたときに備えて、背後に敵を作りたくないのだ」


 夕星は納得して頷いた。渠帥者たちはまだ大王の死を知らない。智鋪が熊襲を攻めるかもしれないとの恐れがあるから、南の隣人である隼人と友好を深めておきたいのだ。


「日向の近くでは、智鋪が隼人に干渉を仕掛けてきているという。それを嫌忌した隼人は、智鋪より熊襲と手を組みたい。そんなときに、わざわざ恩を売る必要はない」


 あっさりと事情が聞けたことに感謝しつつ、夕星は阿蘇津彦が彼を遠ざけた意味が分かる気がした。あまりに躊躇いなく、鞠智彦は真実を吐露している――虜である夕星を相手に。


「あれは俺と其方を近くに置きたくないだけだ」


 静かな声に、忌々しげな感情が透けて見えた。


「――何ゆえ」


 自ら尋ねておきながら、夕星は答えを聞きたくなかった。あるいは、考えていたのと違う答えを聞きたかった。


「俺が其方を御妻にしたいと言ったからだ」


 期待が悪い方に裏切られて、夕星は沈黙した。葉隠が緊張した気配がする。

 螺良のことや風読の定め、一度に色々のことが頭に浮かんでは消えていく。ようやくゆっくりと開いた唇を、鞠智彦は凝視していた。


「其方の后は螺良様だ――私は誰かの妻になれば、間もなく死ぬ」

「知っている」


 間髪入れずに鞠智彦は言った。わかり切ったことだと言わんばかりだった。


「螺良は后に、其方は御妻にする」


 こともなげに言い放った声を聞き、螺良の嬉しそうな顔が思い出された。彼女は輿入れを心待ちにしているのに、相手がこの有り様とはあまりにむごい。絶句した夕星に鞠智彦がにじり寄った。


「其方の命が潰えることは、俺も望んでいない。ただ御妻でいてくれれば良い」

「――何のために」


 阿蘇津彦が、何より螺良がそれを望まないのは確実だ。


「伝えたはずだ。あの夢で」


 後ずさろうとしたが、肩を掴んだ彼の手がそれを許さなかった。


「俺は其方と、敵同士としてでなく会いたかった」


 肩をすべった彼の武骨な手が首を伝い、夕星の頬を包んだ。片手しか操れなくても、顔を彼に向けさせるには充分な大きさの掌が。


「火と風は惹かれ合う。其方も気づいているだろう」


 ――火は風を求め、風は火に吹き寄せる。其方の魂があれらと引きあう力は、我らが思うより遥かに強かった。


 鞠智彦の指が頬を撫でる間に、いつぞやの大王の言葉が蘇った。実際、彼に揺さぶられる心がないと言えば嘘になる。だがそれは、葉隠への思いとは違う。


「私は誰の妻にもならない」


 夕星がそう呟くと、鞠智彦は苛立ちもあらわに顔を顰めた。


「慕う相手がいると言っていたな。大方、死んだという許婚ではないのか」

「違う」

「どこにいる。また会うことが叶う相手ではないだろう」

「だとしても、私の相手はひとりだけだ」


 夕星の輪郭を確かめるように滑る指に、緊張が走った。


「想い続けても詮無いことだ。そうだろう」


 答えようがなかった。姿は見えなくてもいまも傍にいるなどと、言えるわけがない。身を引こうとしても、彼の指に再び力が入った。


「朝霧――」

「鞠智彦様!」


 鋭く呼ばわる声が、やにわに響いた。振り返ると、栗毛の馬に乗って現れた七滝が今しも下馬するところだった。短い髪を靡かせ、短剣だけを帯びた身軽な身体が地に降り立つ。


「お探し申し上げました」

「頼んでおらぬ」

「頼まれたのは阿蘇津彦様です」


 苦虫を嚙み潰したような顔で、鞠智彦は七滝を見た。見返す七滝の視線は冷ややかだ。


「其方は骨の髄まで阿蘇津に忠実だな」

「兄の鬼八がおりませんので、致し方ありません。――さあ」


 素っ気なく言って、七滝は夕星に目配せした。これ幸いと鞠智彦のもとを離れる。


「虜の目付は自分の役目だと、阿蘇津彦様が大層お怒りです」

「言われなくともわかる」


 ため息とともに言うと、鞠智彦は川べりの岩に足をかけて騎乗した。夕星も七滝に支えられて馬の背に登る。


「戻られたら、兄君にお目通りを」

「ああ」


 不満げに言った鞠智彦の声は、川のせせらぎの音に混じり消えて行った。


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