九 梓
風の強い春だった。
小高い丘の上の一面を覆うように広がる館、その敷地の片隅が夕星の寝所になった。狭いが板張りの床や壁は清潔で、閨に敷く薦も古いが手入れされていた。少なくとも、牢よりずっと寝心地が良い。
とはいえ虜囚である夕星には、目付に下働きの女が付くことになった。梓という名の同い年の少女で、熊襲の女の例にもれず明朗活発だった。
丸顔で良く動く瞳を持つ梓は、朝餉や夕餉を運び、監視に当たるだけでなく、夕星の話し相手にもなってくれた。囚われの身に同情してくれているらしい。阿蘇津彦は夕星のことを日向大王の遠縁と説明していた。
ただ梓も、阿蘇津彦が頻繁に来るのを訝ってはいたと思う。彼は毎夕やってきては、翌日に天候の急変がないかを確かめていた。阿蘇の方角の風から感じる降灰の気配、春の嵐の兆しなどを、夕星は事細かに伝えた。
風読にとっては間違えようのない告げ事だったが、阿蘇津彦は日々驚きとともに信頼を深めていった。若葉が茂る頃になると、彼の訪いは次第に間遠になった。夕星が真実を伝えていると信じるに至ったからだ。
「最近は阿蘇津彦様が訪れなくなって、朝霧様も心が休まりますね」
ある日、朝餉を持って現れた梓が言った。どう答えたものか呆けていると、彼女はおどけたように顔を顰めてみせた。
「私には、本音を言って構わないのですよ。――でもその割には、顔色が良くないようでございますね」
小さな子の熱を見るように、梓が額に手を当てた。夕星は肩をすくめた。
「仕方ない」
「どうしてです?」
「閉じこもっているとこうなる」
軟禁生活が長くなるにつれ、体力が削がれていくのは感じていた。たまに外廊に出るくらいは許されたが、建屋の外に出られるとはおよそ思えない。
「阿蘇津彦様にお伝えして差し上げますよ」
「いや、いい」
夕星はかぶりを振った。ここでじっとしていれば、鞠智彦と会わずに済むからだった。
夢で彼に襲われた過去より、最後の夢で話したことのほうが、夕星にとっては引っ掛かった。敵同士としてでなく会いたかった、と彼は言った。実際はふたたび敵同士として会ったわけだが、尋問のあいだ彼が自分に向けた目は、渠帥者の役割に徹していない気がした。
ところが梓は、善意から阿蘇津彦に夕星の具合を伝えたようだった。数日後、いつものように人払いをした彼は、目を細めて夕星を矯めつ眇めつした。
「お前は本当に、風に当たらないと力を失うのか」
「智鋪から逃げて来た理由の一つは、牢に入れられて身体が弱ったからだ」
「わかっている。だから牢ではなくここに入れている」
「おかげで達者に過ごしている。梓にも、このことは伝えなくて良いと言っていた」
ふむ、と阿蘇津彦は考え込む表情をした。
「お前が風読ができなくなるようでは、俺たちも困るのでな」
一度、阿蘇の麓の里にひどい降灰があると告げたとき、阿蘇津彦はその日当地へ向かうはずだった里人たちを足止めした。翌日七滝が行ってみると、夕星が告げたとおり降ったばかりの灰が熱を放っていた。以来、風読に対する信用は格段に上がった。
「ただし外に出るのは、熊襲のために働くときだけだ」
詳しい真意は量りかねたが、彼は思ったよりもずっと、夕星が外へ出ることに前向きだった。梅雨に差し掛かる頃夕星は、阿蘇津彦と七滝に連れられて初めて館を出た。
「風読が正しくなされているのはわかるが、其方は熊襲に土地勘がない。どこにどの里があるか憶えて、より詳しい風読をしろ。――あと、梓の前でくらい、俺への物の言い方に気を付けろ」
「――はい」
阿蘇津彦は夕星にまじないの掛かった色紐をつけさせた。梓が髪に編み込んだ色紐を一瞥し、彼は言った。
「もし逃げようとすれば、この紐が其方の髪と頭を焼き焦がすと憶えておけ」
うなずいたとき、七滝が二頭の馬を引いてきた。夕星は武具を持った七滝との同乗を命じられていた。馬の背に跨ることは許されず、横ずわりだった。よほど警戒されているらしい。
「行くぞ」
阿蘇津彦の声とともに、七滝が鐙で馬の腹を蹴った。
歩きはじめた馬に揺られながら、頬を撫でる風に胸が解きほぐれていくのを覚えた。ふた月ぶりに全身に浴びる風は、思い描いたよりもずっと快かった。
遠出以来、夕星に目に見えて血の気が戻ったと、梓も阿蘇津彦も気づいた。とくに梓は自分のことのように喜んでくれた。
「外に出られて以来、見違えられましたわね」
「梓のおかげだ」
実際は、気落ちしていたのは思うように葉隠と会えないせいだったが、おくびにも出さなかった。
日中は梓が、夜は衛士が近くにおり、葉隠と言葉を交わすこともできなかった。彼は一度、月夜に衛士の目を盗んで現れようとしたが、危険を冒すべきでないと夕星が止めた。
ただ身体に活気が戻ったことで、切迫感もいくらか和らいでいた。このまま阿蘇津彦の信頼を得て行けば、梓がいる時間もいずれ短くなるだろう。不寝番を置く手間も省こうと思うかもしれない。そう期待が持てるようになっていた。
ところが、初夏の頃に阿蘇津彦が告げたのは、思いもよらない話だった。
「夏になったら、其方を津奈木へ移す。当地の里長へ其方を預ける」
「――津奈木」
唐突な話に頭がついていかず、夕星は繰り返して呟いた。
「それは何ゆえ」
普段、彼に問いかけはしない。しかし今回は、黙って聞くにはあまりに大きな変化が訪れている気がした。阿蘇津彦は顰め面で答えた。
「隼人たちに恩を売りたい。風読を通じてな」
隼人とは智鋪にも熊襲にも属さず、筑紫洲南部で狩猟や漁労を中心に暮らす者たちだ。昔、智鋪にまつろわぬ民は熊襲だけなのか、と高良彦に訊いたとき教えられた。
ただし彼らは智鋪へ歯向かうことはない。山がちな土地で細々と営みを続ける彼らは、大国に楯突く兵力がなかった。だから智鋪は、日向から国を拡げるときも、西の隣人である隼人と手を組もうとしなかった。放っておいても脅威にならないからだ。
その隼人へ阿蘇津彦が恩を売ろうとするのは不思議だった。彼らが熊襲に与えられる見返りとは何だろう。
「隼人たちに、風の強い日や嵐になる日を教えてやれ。夏の終わりには、野分も来始めることだしな」
熊襲で風読をして、復興の役に立てということではなかったのか。だからこそ球磨周辺の地理を叩きこまれたはずなのに。腑に落ちない思いで夕星は頷いた。
葉隠も同じ考えのようで、その夜閨に横たわっていると、彼の声がした。
「夕星様」
外には衛士が立っている。夕星は小声で答えた。
「何だ」
「隼人のもとへ行く理由について、梓殿に探りを入れては」
薦の上に広がる髪を、夕星は弄んだ。その考えは何度か頭をよぎっていた。
「反意ありと思われたくない。私が探ったことは、渠帥者にいずれ伝わる」
梓はあくまで目付だ。感じよく振る舞っていても、役割を放棄することはない。
「しかし、わけもわからず移されるよりは」
うん、と夕星は曖昧に答えた。葉隠と静かに暮らすために智鋪を出たはずが、結局駒として翻弄され続けている。彼が歯がゆさを覚えるのも無理はなかった。
「しつこくない程度に訊いてみよう」
「それが良いかと」
少し安心したように、葉隠が言った。
「津奈木で目付が緩くなれば良いのですが」
それは夕星もひそかに望んでいたことだった。
「少しだけ、期待をしよう」
ええ、と葉隠が呟いた。久しぶりに聞く、彼の穏やかな声だった。




