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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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八 虜囚

 夜が明けると、格子の向こうから竿で小突かれた。重い瞼を開くと、薄明るい牢の光景と、凝り固まった身体の痛みが立ち現れてくる。


「起きろ」


 格子の向こうに阿蘇津彦が立っていた。脇には竿を持った近衛が控えている。昨日七滝と呼ばれていた、二十歳ごろと思しき若者だ。


「お前をどう遇するか決めた」


 夕星は相手を見据えた。阿蘇津彦の琥珀色の眼が、値踏みするようにこちらを見ている。


「お前が間者でないという言い分は、信じよう。木葉で怪しい動きはなかったと、里の者に確かめた。渠帥者を斬った者に心当たりがないのも本当だろう。こちらが智鋪に差し向けた間者も、正体を掴めなかったからな。熊襲の鞠智彦を斬ったとなれば噂になって然るべきなのに、誰もあれが斬り結んだことすら知らない」


 阿蘇津彦は続けた。


「熊襲のために風を読め。民草に雨や野分の時を教えよ。渠帥者に仕えるなら命は助けてやる。玉杵名や宇土で熊襲と戦ったことも、俺たちしか知らないよう留めておいてやる」


 頷く代わりに夕星は問うた。


「その代わり?」

「逆らう気配があれば、すぐにどこぞの男と娶せ、次の風読を産ませる。他の臣下にもお前の正体を知らせる――そうなれば皆、お前に子を産ませろと願わずにはいない」


 覚悟はしていたが、断言されると重いものが胸を浸食していった。大王の館から逃れてこれほど早く、次の軛に囚われることになるとは。

 眉を顰めた夕星に向かって、阿蘇津彦はすかさず釘を刺した。


「いいか、生きていられるのはその力を熊襲に役立てる道があるからだ。そうでなければとうに首を斬っている。阿蘇の山が暴れる前に玉杵名や宇土を獲りたかったが、お前のせいで叶わなかった。せめて、残った土地を豊かにすることに手を貸せ」


 熊襲がなぜ同時に二つの里を攻めたか、ようやく腑に落ちた。これまでにない積極的な攻勢は、火山のために土地を失うと知っていたからだったのだ。


「螺良に感謝することだ。お前に命を救われたと、さんざん念押しされた」


 螺良が、と夕星は目を瞠った。自分を匿ったことで、彼女自身の立場が危うくなる恐れもあった。なのに、会って日の浅い自分を守ってくれたとは。


「せいぜいこの先は大人しくすることだな」


 突き放すように言って、阿蘇津彦は七滝に目配せした。七滝は頷き、牢の戸の閂を外しにかかった。ふんと鼻を鳴らして、阿蘇津彦は言った。


「朝霧とか言ったか。ここからは出してやるが、自由に歩き回ることは許さぬ。せいぜい螺良に恩を仇で返さぬよう、風を読んでおけ」


 重い閂が外れると、七滝が牢の戸を開けた。飢えと疲れで重くなった身体で立ち上がると、夕星はよろよろと戸口へ向かった。七滝に二の腕を掴まれ、出口へと向かう。ふと見上げた七滝の眼は、阿蘇津彦の髪と同じ鳶色をしていた。





 館に戻った阿蘇津彦は、彼を待ち構えていた鞠智彦に出くわした。丸木の柵に設けられた門の脇に、神妙な顔で立っている。


「どうした。朝からものものしい」


 不機嫌に言い放ったものの、鞠智彦は乗ってくる様子がない。何だ面白くない、と彼は内心舌打ちした。黙って歩を進めると、相手はついてきた。


「級長戸辺の娘はどうした」

「熊襲に仕えることを受け入れた」


 復興に力を入れたい熊襲にとって、悪くない話だった。手こずることも予測していたが、相手は拍子抜けするほどあっさりと提案を受け入れた。


「命をもって智鋪に仁義を切るほど、日の巫女に毒されてはいなかったようだ」


 そう言うと、鞠智彦は安堵した様子だった。阿蘇津彦は心底呆れた。


「まだあの娘に執着しているのか。秋には螺良との祝言が控えているというのに」

「わかっている」


 ぶっきらぼうに言った弟に、彼はさらに釘を刺した。


「あれは子をもうければ死ぬ。お前の御妻(みめ)にすることは、どちらにしろ叶わぬぞ。しばらくは風読をさせるのだからな」

「知っている。俺もあの場で話を聞いていたのだからな」


 低い声に、微かな苛立ちが宿った。ただ阿蘇津彦も、鞠智彦があの娘を見る目に妙な熱が混じることに気づかないほど鈍感ではなかった。


「あれに呑まれるな」

「どういう意味だ」


 眉を顰めた鞠智彦に、阿蘇津彦は淡々と言った。


「あやつは月読の裔の許婚がいたと言っていた。お前と月読の裔とでは、何もかも違う」

「何だと言うのだ」


 朝霧自身が気づいているかは知らないが、彼女はまだ月の気配を纏っている。たぶん、死んだ許婚の魂の残滓がまとわりついているのだろう。そんな芸当ができる魂を、阿蘇津彦はいままで目にしたことがない。


「月と風は永遠に戯れ続けられる。満ちては欠ける月代の下で、風は立っては消える。真実触れあうことがないから、互いを削り尽くすこともない」


 怪訝そうに片眉を上げた鞠智彦に向かって、阿蘇津彦は続けた。


「だが火と風とではそうはいかない。火はいつか必ず燃え尽きて風の前に消える。風は火がなくても吹き渡り続けるが、火は風がなければ燃え続けられない。深く関われば、弄ばれて消えるのがおちだ」


 不服そうにしながらも、鞠智彦は押し黙った。不思議な力の働きに関しては、少なくとも彼は兄を信頼している。実際、阿蘇の都人を噴火から退避させたのは阿蘇津彦なのだ。


「あれを処断するときは、お前の伽の相手を命じることにする」


 言ったものの、半分は本心ではない。鞠智彦は、ただあの娘を手籠めにしたいわけではなさそうなことを薄々察していたからだ。単に欲望の相手と思うより、ますます始末が悪い。


 阿蘇津彦は、近く義妹になる螺良を可愛がっていた。幼少の頃から目をかけてきた彼女が、降ってわいたように現れた娘のせいで苦しむのは我慢ならない。級長戸辺の娘が風のようにすべてを翻弄し、自らもまた翻弄される定めだと感じ取ったからこそ、できる限りのことはしてやるつもりだった。



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