六 拉致
「螺良」
「はい」
突如立ち止まった阿蘇津彦は、背を見せたまま螺良を呼んだ。反射的に返事をした螺良の声が、不思議そうな響きを帯びる。
「こやつを連れ帰らせてもらう」
言うやいなや阿蘇津彦は、夕星の肩をつかんで無理やり上体を起こさせた。抗う間もなかった。
「只人ならざるお前の気配を、俺が見逃すと思ったか」
憎々しげに吐き捨てると阿蘇津彦は、夕星の顎を掴んで顔を自身へ向けさせた。
「捕らえろ」
は、と答えた近衛は、すぐさま夕星の腕を掴んで背後でねじ上げた。痛みに呻く夕星を見て、阿蘇津彦が軽蔑したように鼻を鳴らす。
「なぜここにいる」
夕星は答えなかった。代わりに声を上げたのは螺良だった。
「阿蘇津彦様――」
「こいつは熊襲の仇だ。俺が預かる」
彼女を遮り、にべもない口調で阿蘇津彦は言った。
「朝霧は私の命を救った者です。その者がいなければ、私は灰に降りこめられて死んでいました」
言い募った螺良に目もくれず、阿蘇津彦は黄金色の目を夕星に向けた。後ろで括られた鳶色の髪が、明かり取りからの陽光に透けている。
「螺良を助けたいきさつは知らんが、事情は渠帥者の館で説明してもらう」
連れて行け、と命じられた近衛が、蹴飛ばすようにして夕星を引っ立てた。
「朝霧」
「申し訳ありません、螺良様」
そう言うのが精一杯だった。驚きと恐怖が頭を占め、その後阿蘇津彦が何を言ったかも憶えていなかった。
縛られた手首を引かれながら、夕星は歩いた。
「逃げられると思うな」
阿蘇津彦から忌々しげに肩を小突かれても、夕星は一言も話さなかった。その彼が近衛たちと話しているときを見計らって、葉隠が囁いた。
「夜までどうかお待ちを。月影があれば、姿を現せます」
初めて聞く話だが、妙に納得した。かつて彼を見たのは人買いに襲われた月夜と、大王の居所に刺客が現れた夜だった。月がなければ、獣の体を借りるしかない。馬も何も周りにいない今、それもできなかった。
歩きながら、夕星は周囲の家並みに目をやった。球磨の都は火の山から逃げ込んだ者で溢れ、建てられたばかりの真新しい建物の群れに、人がひしめき合っている。
このうちどれだけの人々が、すぐに里へ戻ることができるだろう。球磨の土地はこの頭数を抱えきれるだろうか。今冬は里から持ってきた蓄えで乗り切れても、春から開墾した新しい畑で皆を養うことができるのか。
そうした問題に阿蘇津彦が気づかないはずはなく、内心頭を抱えているに違いなかった。重大な課題に煩悶しているところに、積年の恨みの対象が現れた。手加減する理由はない。彼が夕星を生かしておくとしたら、何か利得がなければならない。
「風読の力を明かす」
葉隠だけに聞こえるように、夕星は囁いた。
「きっと彼らは、私を殺さない」
死なない程度に生かされる可能性については、考えないことにした。
館に着くと、鞠智彦と阿蘇津彦が御座に居並ぶ広間へと連れて行かれた。二人の渠帥者の前に、突き飛ばされるようにして膝を突く。後ろ手に縛られていたため、床板に顔から突っ込みそうになったが、脇に立った近衛が寸前で肩を掴んだ。
鞠智彦は変わらぬ精悍な顔つきに、長い黒髪を肩に流していた。滾るような苛烈な視線も変わらない。夢と違うのは、左腕を黒い布で吊っていることだ。山鹿で怪我を負ったのだろうか。
彼の黒々とした瞳は、夕星に強い問いを向けていた。何故ここにいて、二人の渠帥者の前に引きずり出されているのか。
鞠智彦が最初に尋ねたのは兄に対してだった。
「どういうことだ」
「それをこれから訊くところだ」
忌々しそうに鼻を鳴らして、阿蘇津彦が答える。
「螺良の館の下働きに紛れ込んでいた。球磨へ逃げる螺良を助けたらしい」
驚いたような感心したような目で、鞠智彦が夕星を矯めつ眇めつした。
「こいつは山鹿には現れなかったのだろう」
兄に問われて、鞠智彦はゆっくりと頷いた。
「いなかった。言っただろう――高良彦すらすぐ逃げ帰ったのだ。おおかた、其方が仕掛けた襲撃の報を聞いて、御笠に向かったのだろうが」
夕星は瞠目した。大王の館で葉隠が射られたのは、阿蘇津彦が仕組んだことだったのか。考えてみれば葉隠の姿――夕星が思い描いていた、朱鷺彦に瓜二つの若者の姿――を見せ、庭におびき出すような芸当ができる人物は彼以外にない。自分は日向大王として狙われ、殺されようとしていたのだ。
あの宵、大王の居所にいたのが自分だったと、阿蘇津彦は気づいているだろうか。一言も言及しないところを見ると、可能性は低そうだった。
あの場にいたのが自分だと悟られたら、葉隠の存在にも気づかれてしまうかもしれない。御笠ではなく別の場所から逃げてきたことにし、かつ逃亡の理由にそれらしい言い訳を考えねばならなかった。
「お前はどこから来た。俺のまじないを避けて、御笠から姿を消しただろう」
折しも阿蘇津彦に問われ、夕星は唇を引き結んだ。彼らが事情に通じておらず、夕星がいても不思議ではなかった場所はどこか。
「――山門に」
山門、と阿蘇津彦が繰り返して呟いた。
筑紫洲南東部から国を拡げた智鋪は、かつて御笠より南の山門に都を構えていた。名前のとおり、山あいにある要害の地だ。伽羅国との交易の重要度が増すのに伴って、都は那津に近い御笠に遷されたが、今も大王の縁者が多数いる土地ではあった。
「山門とやらから、熊襲へ来たのは何用だ」
鞠智彦が初めて、夕星に向かって問うた。二度と会うことはないと言っただろうに、という内心の声が聞こえてきそうだ。
「風の当たらぬ牢に、長く閉じ込められていたから」
考えこむように、鞠智彦は片眉を上げた。
「私は、風の女神級長戸辺の娘だ。風に当たれなければ弱り衰える」
無傷の右腕で、鞠智彦は胡坐をかいた膝に肘をついた。手に顎を載せ、兄を一瞥する。嘘ではないだろう、と請けあうように阿蘇津彦がうなずいた。
「なぜ囚われていた? 前は戦にも駆り出されていただろう」
眉をひそめた阿蘇津彦に、夕星は努めて冷静に答えた。
「大王の影になるよう脅され、拒んだから」
すべて嘘でもなければ、すべて真でもない。阿蘇津彦は――自ら殺めようとしたくらいだから――大王の死を知らない。智鋪は夕星が逃げ出した今、大王が亡くなったことを公にしただろうか。わからないが、山門にいたと言えば知らなくても言い訳が立つ。
幸い阿蘇津彦は信じたようで、促すように言った。
「日の巫女の影に?」
「私には大王のような先見の才はないが、風を読むことができる。それはある意味で先を読むことだと考えた王弟が、大王の影を演じるよう私に強いてきた」
兄弟は黙って耳を傾けていた。目まぐるしく頭を働かせながら、言葉を継ぐ。
「命を聞くふりをして牢から出された時、隙を見て逃げたのだ」
「影になれと命じられたのはなぜだ」
今や智鋪に義理はないが、かつて自分を拾ってくれた大王の死については口を閉ざそうと決め、夕星は答えた。
「聞かされていない」




