五 賜物
程なくして阿蘇津彦の一行が近づいてくる。華奢な彼の軽い足音とともに、女のようになよやかな足が目の前を通った。近衛の重い足音がそれに続く。
ひとまず相手が通り過ぎたことに、胸を撫でおろした。迷いのない進みで夏羽と螺良の前に立ち止まった阿蘇津彦は、男にしては高いがよく通る声で言った。
「木葉の里の夏羽に螺良。――無事に球磨に辿り着いたようで何よりだ」
「阿蘇津彦様から早馬をいただいたおかげでございます」
夏羽が朴訥な口調で言った。そっと窺い見ると、恭しく礼をした彼に、藁蓋に胡坐をかいた阿蘇津彦が満足そうに答えた。
「間に合ってよかった。弟の許嫁が無事で一安心だ。球磨へは大事なく来られたか」
阿蘇津彦が螺良に顔を向ける。あの日のことに話が及ぶのではと、夕星は息を詰めた。
「おかげさまで、大過なく」
螺良が無難に受け流してくれたことに感謝し、息をつく。阿蘇津彦は続けた。
「里の様子を見るのは兄に任せておけ。鞠智彦に嫁ぐ前に、其方に何かあってはことだ」
元から遠い縁戚ということもあってか、阿蘇津彦と螺良らの会話は気安く、構えたところがない。改まっていた語調も徐々にくだけ、和やかな雰囲気が漂い始めたところで、阿蘇津彦が本題を切り出した。
「ところで、春先にと考えていた祝言だが、山が暴れた混乱を鑑みて秋まで延ばしたい。今日はその申し入れに参った」
螺良が阿蘇津彦に向ける面持ちは、心配そうであると同時に寂しそうだった。相手の立場の重さを理解しつつ、鞠智彦との婚儀が遠のくのは切ないのだろう。
「山鹿での戦と暴れ山とが重なってしまい、国を建て直すのにしばらく様子を見させてほしい。前々から支度をしてくれていたところに、大変心苦しいのだが」
「ご足労、ご深慮ありがたく存じます」
淡々とした、だが折り目正しい口調で夏羽が言った。同時に抜け目なく念を押す。
「妹は焦らず構えております。肝要なことは、鞠智彦様のもとへ参れるということでございますから」
「無論、許婚の約束は変わらない。渠帥者の館でも其方を待っている。特に木葉から出仕している者たちがな」
阿蘇津彦が請け合うのを聞いて、螺良の表情が緩んだ。前に言っていたとおり、仲のいい者が渠帥者の館で働いているのだろう。
「とは言え、わずかでも安心してもらえるよう手を考えた。気に入ってくれるといいが」
阿蘇津彦は脇に立つ配下に目配せすると、抱えていた包みを螺良に渡させた。彼女は恭しく礼をして、それを受け取った。
「開けてみるといい」
螺良が麻紐と麻布を解くと、現れたのは目の覚めるような真紅と橙の生地だった。
「これは――」
半ば呆けたように螺良が口にした。
「渠帥者の館に嫁するときは、それを着るといい」
それは、炎を象った模様を織り込んだ長い衣だった。細かで複雑な文様は、波のようにも花のようにも見える。何人かが、感心したようなため息を漏らした。
「これほど美しい衣は、見たことがありません」
「俺も初めて作らせた」
阿蘇津彦はあっさりと言って、満足げに肩をそびやかした。
「これを預けておけば、許嫁の約束を守る気があると少しは信じてもらえるかと思ってな」
「――お心遣い、ありがとうございます」
目を輝かせて螺良は言った。若く素直な姫君の喜びようを見て、広間の空気が柔らかくなった。その生き生きとした表情を見れば、螺良がなぜ誰からも好かれているかわかる。
「もともと其方の婚礼にあわせて作らせたものだ。渠帥者に嫁ぐ衣にふさわしく、火の神の裔のまじないがかけてある」
「まじないとは、どのような」
得意げな間が一瞬空いた。
「炎に包まれても燃えないまじないだ。火に触れれば火傷を負う其方でも、その衣を纏ったときからは渠帥者の一族となる」
明るい驚嘆とともに、螺良は手元の衣をしげしげと眺めた。織目のひとつひとつを確かめるように撫でていく。
「何と言ってよいか。木葉の里長にも火の神の裔の血は流れておりますが、阿蘇津彦様や鞠智彦様とは違います――火炎に包まれても傷ひとつない、貴方様たちとは。その隔たりを埋める衣を授かれるなんて」
彼の来訪は、郷里を離れた者たちへの慰問であるとともに、渠帥者の権威を印象付けるものでもあった。渠帥者と結びついた長たちの立場を、里人たちの前で裏付ける意味合いもある。炎に焼かれることのない身体に加え、まじないという彼独特の力もそこにいかんなく発揮されていた。
「秋までつつがなく過ごしてほしい。鞠智彦には軛をつけて、大人しくさせておく」
「楽しみにしております。でも、秋になったら軛を解いてくださいますよう」
妹のせりふに、黙っていた夏羽が微笑した。阿蘇津彦の声も和やかだ。
「里の建て直しで、力になれることがあれば申せ。其方も後顧の憂いを排して嫁ぎたいだろうしな」
「ありがとうございます」
恭しく頭を下げた夏羽と螺良に向かって、阿蘇津彦はうなずいてみせた。見えるのは後ろ姿のみで表情はわからないが、二人の反応は期待通りだったようだ。
「手短で済まないが、今日はここで失礼させてもらう。心苦しいが、非礼と思わずにいてくれればありがたい」
「とんでもないことです」
かぶりを振った螺良に、阿蘇津彦は穏やかに言った。
「其方は本当に、鞠智彦にはもったいない許嫁だ。待っているぞ」
立ち上がった彼に向って、螺良と夏羽があらためて床板に手を突き、礼をする。
「ありがたき幸せに存じます」
「俺のほうこそ、歓待に礼を言う。また秋にな」
阿蘇津彦が立ち上がると同時に、夕星は深く頭を下げ、床に額づいた。周りの者たちも、再び深く跪伏礼をする。渠帥者は足取りも軽く、夏羽と螺良に背を向けた。
渠帥者と会う恐れは、もうないだろう。螺良が嫁げば彼らがここを訪れる理由もない。夕星は安堵とともに阿蘇津彦の足音を聞いていた――その足が、目の前で止まるまでは。




