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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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四 来訪

 球磨で迎えた最初の望月の夜だった。螺良の服を取り込み忘れたことに気づき、日が暮れてから干場に来ていた。誰もいない庭で冷たい衣と裳を腕に抱えたとき、彼の声がした。


「夕星様」


 何日ぶりかに耳にする声に、夕星は我知らず深い息をついた。


「良かった。無事でいたか?」

「はい」


 あたりを見回し、人がいないことを確かめてから、夕星は地面に突き出した岩に腰を下ろした。


「傷の具合はどうだ。相当な深手だったろう」


 おそるおそる尋ねると、葉隠は存外にあっさりと答えた。


「すでに癒えました。もうお傍を離れる必要はないかと」


 ふたたび夕星は安堵の息をついた。彼が護ってくれる暮らしは早や数年になっている。その葉隠とたった何日かでも離れていたことが、思った以上の不安をもたらしていた。


「良かった」


 思わず声が詰まりそうになって、呼吸を落ち着ける。


「夕星様は――」

「私は大事ない。ここ球磨で暮らそうと思う」


 暫く沈黙してから、葉隠は考えこむような口調で言った。


「貴女様と螺良殿の声を、夢うつつに聞いておりました。木葉の里人と暮らすのが最良だと、私も思います。そうお望みなのでしょう」


 夕星はうなずいた。大国の思惑に翻弄されるより、静かに生きていきたい。その望みに、葉隠が同意してくれたことが嬉しかった。


 それに里人たちは神の裔を見慣れていないためか、夕星を只人ならざる者と見咎めることもなかった。夏羽には、どうやら螺良が話をつけているようだった。


「風読の力も、何もかも隠して生きていこうと思う。螺良殿が計らってくれる」

「ええ」


 たった一言なのに、穏やかな声に胸が満たされる。自分の気持ちを認め、彼と逃げてきたことで、何気ないやり取りの意味合いがまったく変わっていた。想いを抑えながら言葉を交わす必要は、もうない。


「葉隠――」


 姿を見せて、と言おうとした時だった。


「朝霧?」


 背後から声がかかって、夕星は弾かれたように振り返った。灯心を載せた小皿を手に、螺良が渡殿に立ってこちらを見ていた。


「遅くにどうしたのだ」

「干場に忘れ物をしてしまったので。――螺良様こそ、いかがされましたか」


 螺良はああ、と背後の建屋を見やった。夕星たち下働きの者が寝起きする場所だ。


(かすみ)と遊んでやっていたら、私の寝所で寝てしまったので、今送って来た」

「そうでしたか。次からは私がお送りいたします」


 霞は清ましの女の娘で、三つになったばかりだ。螺良が時々構ってやっている。彼女は赤子だけでなく子どもも好きだった。


「気にするな。よく休むといい。明後日には、渠帥者の君をお迎えすることでもあるし」

「渠帥者の君を?」


 夕星は思わず訊き返した。螺良の声が妙に沈んでいることを慮る余裕も吹き飛んでしまった。


「ああ。さきほど遣いが来たらしい」


 そういえば陽が落ちる前に客人があって、夏羽たちが慌ただしくしていた。あれが渠帥者の館からの遣いだったとは。


「いらっしゃるのは鞠智彦様でしょうか」


 内心蒼白になりながら尋ねたものの、螺良は首を振った。


「いや、阿蘇津彦様だ。鞠智彦様は、山鹿の戦から戻られたばかりだから」


 すっかり忘れていたが、高良彦は熊襲の軍勢が現れた山鹿に向かったのだった。いま思えば、追っ手がかかった様子がなかったのも、嵐に加え高良彦の不在に助けられたのだろう。


 阿蘇津彦と最後に会ったのは二年以上前で、暗い夢のなかだった。近くで対面しなければ見咎められることはないはずだ。


「遣いが仄めかしたのだが、阿蘇津彦様がいらっしゃるのは祝言を遅らせるためだ」


 声音が冴えないのはそのせいだったか、と夕星は思い至った。


「残念なことですね。待ちきれない慶事でしたのに」


 螺良は寂しそうに微笑した。


「致しかたない。相手は熊襲を背負う渠帥者なのだから。まだ山は暴れないと思って、鞠智彦様が戦へ発った途端にこうなってしまったしな。本当は、智鋪から戦果を挙げてめでたいところに、祝言を執り行うおつもりだったのだ」

「次のときこそは、つつがなく事が進むとよいですが」

「ありがとう。そう言ってもらえるだけで嬉しいよ。――おやすみ」


 静かに夕星をねぎらうと、螺良は家人たちの休む建屋へと歩いて行った。





 螺良に必要な支度をすべて整えてから、夕星は具合が優れないと伝えた。近く義兄となる遠縁の渠帥者と会うことに高揚している螺良は、不審がる様子もなかった。


「無理せず休んでいてくれ。ごった返す前に奥へ戻るといい」


 螺良の配慮に感謝しながら、夕星は彼女のもとを辞した。


 長の館の周りには、すでに朝から里人が集まり始めていた。庭の奥で人混みを掻き分けようと苦心していると、にわかに門の近くが騒がしくなった。


 どうやら渠帥者たちが到着してしまったようだ。里人たちに倣って膝を折り、地面に屈もうとした時、誰かに腕を掴まれた。振り返ると、螺良の母の侍女をしている年配の女だった。


「朝霧」


 よく通る声で呼ばれて、ぎょっとする。


「どうしたんだい、こんな隅で。館の者は広間にいるよ」


 館で働く者が皆誇らしげに広間へと向かうのを、夕星も目にしていた。螺良や夏羽がそこで渠帥者を迎えることになっているからだ。それなのに夕星が庭にいるのを、何かの間違いだと思ったらしい。


「でも、私は」

「あんたは中に行きなよ。螺良様の命の恩人なんだから」


 有無を言わさぬ口調で言って、彼女は夕星の手を引いた。抵抗したいが、大声も出したくない。結局そのまま広間へと引きずられていった。最近気づいたのだが、智鋪の者より熊襲の者のほうが、概して押しが強い。


「具合が悪いから、後ろのほうに――」

「勿体ないこと言わないの。あんただって苦労しただろ」


 天災で身寄りを失ったと思われている夕星に、思えば彼女は何かと同情的だった。


「阿蘇津彦様のお姿を拝むくらい、したって良いさね」


 夕星は広間の戸口近くの、最前列に押し出されてしまった。阿蘇津彦のために空けられた道が目の前にある。誰も、年配の侍女に逆らって夕星を押し返そうとはしなかった。


 周囲に倣って慌てて跪き、頭を垂れた。とにかく目を見られないようにしなければ。


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