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風待つ朔  作者: 丹寧
第二部 輝津霊 海神
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一 螺良

 無策だった自分に、これが唯一の機会となるかもしれない。衝き動かされるようにして、どさくさにまぎれて館を出た。


 夕星は月影を頼りに馬を駆った。命を賭して脱走する緊張に身体が高揚し、それは宇土洲で胸に宿った風に似ていた。それと呼応するように、遠ざかっていく都に吹き荒れる嵐を感じた。あの戦いの夜のような手ざわりはないものの、きっと勾玉と自分とが嵐を呼んだのだろう。


 追跡の気配はなかったが、確かなことは言えない。葉隠の助けを得ることができなかったからだ。


 館を出て以来彼は呼びかけに答えず、話しかけてもこない。あれほどの傷を負ったのだから、身体を持たないと言えど力を削がれているのに違いなかった。


 生きているだろうか、という懸念が頭をよぎるたび、むかし聞いた声を脳裏で繰り返した。彼が死ぬのは、護るべき主が死した時だ。ならばまずは、夕星自身が無事に生きのびねばならない。


 あの夜、血まみれの貫頭衣と大袖を脱ぐと、夕星はただの巫女と言い張ることのできる恰好になった。白露が出入りしていた、衣服をしまう一角に忍び込み、帯や紐を衛士用のものに付け替えた。厩のそばの斜面に設けられていた(くら)から、干した木の実や燻し肉も取ってこられた。いつか、多岐都の忠告を覚えていた葉隠から場所を聞いていたからだ。


 幸い、大王の居所に人が集まっており、夕星を見咎める者はいなかった。門の衛士も、高良彦への早馬だと名乗った夕星の言葉を信じた。巫女長としても、本来いないはずの風読を捜させることはできなかっただろう。


 夕星にとって万事が都合よく運んだ――葉隠の無事が、わからないこと以外は。


 ひとり旅するいまなら、人目を憚らず話すことも、会うこともできる。その状況で初めて彼と隔たってしまったのは、ひどく皮肉なことだった。


 館を出て数日、夕星は熊襲国に足を踏み入れようとしていた。玉杵名周辺の山道が終わり、白茶けた草原の覆う地が広がっている。その先のどこかに、都をいただく阿蘇の山並みがそびえているはずだ。


 疲弊した馬を並足で進ませながら、夕星は口を開いた。


「葉隠」


 答えはない。何度目かに落胆しながらも、虚空に向かって続けた。


「智鋪には結局、長くはいられない定めだったという気がする」


 大王に拾われなければ、野垂れ死んでいたのは確かだ。だが大王がいなくなった途端、智鋪は夕星にとって危険な場所となってしまった。小国で育った自分が、大国で権謀術数に取り巻かれて生きることは、無謀だったとも思う。


 いずれ高良彦や巫女長の思惑に押しつぶされることになるなら、あの館で長らえることは救いにはならなかった。ひとところに留まろうとした判断は結果として正しくなかった――より良い場所を求めて、行動しなければならなかったのだ。


「もし科戸のような穏やかな里に居つくことができたら、それが一番良い」


 今後の事態がそれを許すかはわからないが、静かな暮らしこそが自分の望みだと、今更ながらに痛感していた。


 沈黙を聞きながら、夕星は南へ向かった。


 阿蘇から立ち昇った噴煙が西の空を突如覆ったのは、その翌日だった。





 日が高く昇った頃、地の裂けるような音が轟いた。左手にそびえる山並みの向こうから、灰色の煙が見る間に空へと駆けあがる。遥か東の阿蘇の山が、ついに猛威を振るいはじめたのだ。


 忽然と暴れ出した地の力に、背筋は粟立った。これほど大きな力が荒れ狂うのを見たのは初めてだ。南へ向かっていた夕星は、馬首を道のない西へ向けた。東風に巻き上げられた噴煙はこちらへ漂ってくる。必死で勾玉を握りしめ、西風が吹くよう祈った。しかし、御笠に呼んだ嵐で力を使い果たしたのか、思うように風が呼べない。


 噴煙が頭上に掛かり始めた頃、集落に行き当たった。山麓にしがみつくように広がる村に、掘立柱の家屋や高床の倉が並んでいる。


 どこかで軒を借りたかったが、間もなくまったく人気がないことに気づいた。人どころか鼠一匹すら見当たらず、里じゅうが静まり返っている。


 ちらほらと舞いはじめた灰があたりを覆い尽くすのも時間の問題だった。視界が悪くなる前に落ち着ける場所を見つけねばならないが、家や倉にあったであろう食物や水はことごとく持ち去られていた。これでは灰をよけることはできても飢えてしまう。


 何軒目かに立ち寄った高床の倉も、やはり空だった。梯子を下りる間にも、柱につないだ馬の怯えた息遣いが耳を突く。肩を落としながら、夕星は縛っていた手綱を解いた。


「誰かいるのか?」


 出しぬけに鋭い声が飛んだのはその時だった。あたりを見回した夕星は、駆け寄ってくる同じ年頃の少女の姿をみとめた。身を隠す暇もなかった。


 遮二無二走ってきた彼女は、ひどくやつれていた。額には珠のような汗が浮かび、灰が貼りついている。元は丁寧に結われていたらしい黒髪は、解けてほつれていた。


 目の前で立ち止まった彼女は、我に返ったように夕星の顔を見つめた。


「見慣れない顔だな――どうして」


 夕星ははっとした。よそ者と悟られたからでも、堂々とした様子から身分の高さを察したからでもない。相手の黒々とした目が、只人ならざる光を持っていたためだ。


「訳あってここへ」


 とにもかくにもそう答えると、少女は心得たと言いたげに頷いた。


「細かいことは良い。私も載せてくれ」


 馬を一瞥しながら、彼女は言った。


「ここにいると危ない。皆がいる球磨(くま)まで連れて行ってくれたら、其方の面倒を見ると約束する」


 手短に切り出され、夕星は一も二もなく頷いた。彼女は行くべき場所を知っていて、そこには助けあえる者がいる。ここに独りでいるよりいい。


「乗って」


 馬を梯子の脇まで連れて行くと、少女は慣れた様子で梯子の段に足をかけてから、鐙を足掛かりにして馬の背に乗った。夕星も続いて跨る。


「道を教えてほしい」

「無論だ」


 はっきりと言って、彼女は頷いた。


「私は螺良(つぶら)という。其方は?」

「――朝霧」


 逡巡を押し隠し、使い慣れた仮の名を口にした。螺良は夕星を眺め回し、奇妙なものでも見たような顔をした。男物の服を着ていながら、女の名を名乗ったためだろう。


「事情は後で聞く。南東へ向かってくれ」

「しかし――」

「何だ」


 風はまさに南東から、灰を含んだ噴煙を運んできている。灰の降る道に突っ込んでいくのは危険だが、天上の風がどうのと説明するわけにもいかない。


「わかった。行こう」


 夕星は馬を駆った。肩で息をする螺良の首筋を滝のような汗が流れ、熱い身体が力なく夕星にもたれかかっている。


 馬を御しながら最後に聞いたのは、あとはこの道を辿れ、という囁きだった。言うなり螺良は、気を失うように寝入ってしまった。


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