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風待つ朔  作者: 丹寧
第一部 風読 月夜見
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三十四 櫻花

 春の陽は暖かい。誰かの腕に抱かれることもまた、温かかった。


 止められないほどに胸を昂らせる相手と、強烈な安堵を分けあうことは、これほどまでに甘く苦しい。


 ああ、そうか、と夕星は呟いた。泣いていた五歳の夕星を助けてくれたのは、今自分を抱いている若者だったのだ。朱鷺彦によく似ているが声はいくらか低く、弓も達者なら知恵も回る、月読の息子だった。


 彼は朱鷺彦に生き写しだった。声が似ていたので最初からそうではないかと思っていたが、会ったばかりのころの葉隠は、そんな憶測を言える相手ではなかった。


 頬に触れる手に、力がこもった。月影に浮かびあがる彼の顔は、ずっと思い描いてきた通り、まばゆいほどに端麗だった。


「葉隠」


 血まみれの彼の名を呼んだ。深手を負った彼に、何をしたらいい。


「夕星様」


 葉隠はやにわに腕を解くと、夕星を広間の奥へと突き飛ばした。


 床板に倒れた身体を起こした時、彼の姿は跡形もなく消えていた。何が起こったか考える間もなく、同じ声がふたたび告げた。


「お逃げを」


 庭との間に下がった御簾を矢が貫き、夕星の脇を掠めた。身を翻し、走って広間を横切るまでに、さらに二本の矢が射られた。





 ひらけた庭の真ん中に立った白露は、眼前の光景に目を瞠った。大王を庭沿いの廊下へおびき出したまでは良かったが、矢が放たれると誰かが立ちはだかった。大王を庇った男に、熊襲の鏃は深々と突き刺さった。


 次の刹那その姿は掻き消え、日の巫女は御簾の向こうへ隠れた。配下が追い討ちをかけるように放った矢は、御簾越しで狙いが定まらず命中しなかった。


「追え」


 配下の喜八――もとい鬼八に命じる。彼は微かな足音とともに屋根を駆けた。熊襲から大王の館に送りこまれた間者だ。大王の居所を突き止め、白露に取り入り、兵庫から大弓を盗んだ。矢を射たのも、むろん彼である。名前の通り、鬼のように鋭い目をした若者だった。


 自分もときどき、白露に憑りついて館の様子を探ったり、鬼八に進捗を尋ねたりした。彼女が夢から醒めた朝霧を、いつも灯心(とうしみ)を持って見に行ったのも有利に働いた。小さな火を通じ、彼女の体を乗っ取るのは簡単だった。今もこうして、大王の居所に忍び込ませている。


 しかしあれが、本当に日の巫女なのだろうか。あどけない少女のように見えたが。


 考え込んだとき、広間に来た何者かが御簾をのけてこちらを見た。床に広がる夥しい血と白露の姿に、顔色を変えた巫女長だった。


「お前、何をした」


 目を見開き叫ぶ巫女長に、白露は口の端を大きく上げて笑ってみせた。不敵な笑みは、彼女の体を借りた阿蘇津彦の笑みと寸分違わない。


「何も」


 阿蘇津彦はゆっくりと足を踏み出した。恐怖に駆られた相手は、息を詰め後退りする。慌てて走り出し、誰かを呼びに行った。足音の虚ろな響きだけが残った。


 大王は傷を負っただろうか。衣服は赤く染まっていたが、庇っていた誰かの血かもしれない。思った時、屋根を走って近づいてくる足音がした。鬼八だ。


「阿蘇津彦様、お逃げを」

「何だ。どうした」


 大王を見失ったのか。しかし鬼八は問いに答えず、焦った声で告げた。


「人が参ります」


 警告は遅きに失した。彼が言い終わるか終わらないかのうちに、広間の奥から慌ただしい足音がし、近衛たちが駆け寄ってきた。


 近衛のひとりが庭に飛びおりた瞬間、阿蘇津彦は矢羽根が空を切る音を聞いた。鬼八の放った矢だと理解した刹那、足に鈍い衝撃が走る。見れば自分の足が矢に貫かれていた。鬼八にはありえない狙いの外し方だ。


 はっと見あげると、肩に矢を受けた鬼八が愕然と腕を垂れている。あたりを見渡したが、痛みで意識が定まらない。無数の足音は、人が続々と集まっていることを告げていた。老女の声が響く。


「その者を射よ! 日向大王を害した者なるぞ」


 阿蘇津彦の体に幾本もの矢が連なるまで、時間はかからなかった。


 衝撃と同時に凄絶な痛みが体を襲った。胸がひとつ鼓動を打つごとに意識が遠のく。篝火の光が滲み、ぼやけていく。


 この体から離れよう。痛みに揺らぐ頭で、阿蘇津彦は思った。


 だが黙って去るのは性に合わない。ようやく智舗に一矢報いることができたのだ。今にも死にそうな小娘の体に鞭打って、彼は声を張り上げた。


「日の巫女を害されて、其方たちは何とする! 要を失った智舗国は、小国の寄せ集めにも見劣りするわ」


 さらに何本かの矢が体に突き刺さった。


 血が喉の奥から湧き上がり、体中の肉が裂かれるのを感じながら、阿蘇津彦は叫んだ。いくら叫んでも、娘の高い声しか出ないのが奇妙だ。


「最早ここに用はない。火の国熊襲でお前たちを待っているぞ」


 急速に薄れる意識の中、彼は膝をつき、胸から倒れこんだ。最期に目に映ったのは、夜空に掛かる月の朧な輪郭だった。


 骸は苦悶の表情を浮かべ、静かに絶命していた。虚ろな沈黙が支配する庭を、にわかに強くなり始めた風が渡った。


 級長戸辺の娘が呼んだ嵐は、その後三日三晩荒れ続けることとなった。


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