三十三 告白
暫く静けさを守っていた夕星が、再び口を利いた。
「葉隠」
「は」
彼女はおもむろに手を自身の首に伸ばし、衣の中につけていた勾玉を取り出した。火影の中、ふと見えた首筋の艶めかしさにどきりとする。
「いつ体を捨てたのだ?」
唐突な問いに、葉隠は黙した。主は静かに答えを待っている。
ひた隠しにしてきたことのはずだったが、以前ほど恐ろしい問いではなくなっていた。
「十の歳でございます」
「体を捨てると、元から決まっていたのか?」
いえ、と葉隠は答えた。
「十の歳に、兄と私のどちらかがこうなるとだけ決まっていました。里の山で一晩過ごして夜が明けた時、体がなくなっていたのは私のほうでした」
夕星はわずかに眉根を寄せた。涙はいつしか止まっている。
「十歳の子どもが突然体を失うとは、辛いことであったな」
その言葉は葉隠自身思いもよらなかったほどに、胸のつかえを取り払った。
急に心を抑えていたものがなくなったように感じて、葉隠はしばらく不思議な感覚に茫然と身を委ねた。独り抱えていた傷に夕星が手を触れたが、痛みはない。いつまでも生々しかった傷口が、仄かに癒えただけだ。
夕星は手元に目線を落とした。掌には月読の勾玉が載っている。
「其方には兄がいたのだな。私が会ったことはあるか?」
今度は別の意味で、葉隠は言葉に窮した。
姿形が朱鷺彦と似ていることを、夕星はどう思うだろう。逡巡しながら葉隠は言った。
「――はい」
夕星は不意に微笑を浮かべた。懸念は杞憂に過ぎないと、悟らせるのに充分なほど穏やかな笑みだった。
「たぶん私は、誰なのか知っている」
夕星は細い指を折り、勾玉を掌中に包んでから続けた。
「其方が姿を現さないのは、大王と同じ理由だったのではないか? 誰かに似ているのを、隠すために」
自分の恐れが見透かされていたと知り、葉隠は言葉を失った。
もっと早く、夕星に心を開いていれば。もっと多くの言葉を交わしていれば。
「葉隠」
あらためて夕星は彼の名を呼んだ。外廊にさがる御簾一枚で隔てられた庭を眺めながら。小さな庭には侵入者の隠れる場所がないよう、木の一本、石の一つもない。ただ平らげられた地面だけが月下に広がっている。
「はい」
「姿を見せて」
躊躇う理由などなかった。葉隠はその場に立ち現れ、床の上に何も纏わぬ足を置いた。夕星の正面ではあったが、間合いは遠く離れている。簡素な衣だけを身に着け、首の後ろで長い黒髪を束ねた、玉杵名の丘に現れたままの姿だった。
庭のほうを向いている夕星は。葉隠が現れたことに気づいていない。
彼女に歩み寄ろうとした葉隠はしかし、夕星の眼が見開かれるのを見た。つられて庭を見やると御簾の向こう、庭の只中に誰かが佇んでいる。彼にはそれが、夕星の姿に見えた。
葉隠は御座を今一度見やった。庭にもう一人、夕星が現れた意味がわからない。混乱する彼の前で主は呆然と呟いた。
「――葉隠」
夕星は立ち上がり、庭へ走り寄った。
一瞬遅れて、夕星が自分とは違うものを目にしていると気づく。ならば庭にいるのは生身の人間ではない――まやかしだ。再び姿を消して意識だけになった葉隠は、主の後を追った。夕星が、御簾を払って廊下に出る。
葉隠は間もなく異変に気付いた。庭を取り囲む棟の屋根に、大弓を構える何者かがいた。兵庫からなくなったという大弓に、矢が番えられている。
射手の顔には見覚えがあるが、名を思い出す間もなくその者は弓弦を引き絞った。迷いがなく正確な動作は、弓の腕が確かなことを示している。
夜目が利かない夕星には、射手が見えない。葉隠が咄嗟に姿を現したのと、愕然と呼んだのはほぼ同時だった。
「夕星様!」
葉隠は夕星の前に立ちはだかり、射手と主のあいだに自分の身を差し入れた。
刹那、射手の放った矢が体を貫く。背を槌で殴られたかのような激しい衝撃と、前後不覚に陥る痛みが体と頭を揺さぶる。矢傷から流れた血が足を滴って床へと流れ落ちた。激痛に一寸たりとも体を動かすことができなかった。
夕星の顔は、目と鼻の先にあった。思い慕っていた目が自分を見つめた時、葉隠は激しい後悔に苛まれた。驚きに強張った顔をしながらも、夕星が迷いなく呟いたからだ。
「葉隠」
夕星は彼のなかに、朱鷺彦を見たりしなかった。どちらからともなく床にくずおれる直前、葉隠は腕に夕星を強く抱いた。
「葉隠、動くな」
抱いてみると夕星の体は、見た目よりもさらに華奢だった。肌を通して感じる鼓動は力強いけれど、自分の鼓動はいつまで脈打っていられるだろう。
「逢いたかった」
体を貫く痛みにも構わず、葉隠は夕星の頬に触れた。珠のように白い肌は、温かい。こうして触れることを何度願ったか知れなかった。
甘く苦しい思慕が始まったのは、いつからだろう。朱鷺彦の影を乗り越えるまで、あまりに長くかかってしまった。だがかつての迷いを悔いつつも、心は奇妙に穏やかだった。
焦がれた姿とようやく向き合えたからなのか、長い葛藤をついに終えられたからなのか。
ずっと不思議だったことがある。弓の名手だった朱鷺彦に、訊いてみたことがあった。
十二のころだ。庭の桜を眺めながら、弓の習練を終えた朱鷺彦は武具を手入れしていた。夕星は廊下の縁に腰かけ、桜の花びらを手で追いながら尋ねた。
「朱鷺彦様は、いつから弓をお始めになったのですか?」
先ほど持たせてもらった弓は大層重く、華奢な夕星には引くことすら難しかった。
「はじめから、正しく弓が引けたのですか」
「九つで始めた。――最初は力が弱くて、とても無理だったよ」
弓弦を弓筈から取り去って仕舞いながら、彼は答えた。艶のある黒髪が、春の陽を浴びて眩しかった。
「朱鷺彦様でも?」
「ああ。あまり体が強くなかったから」
朱鷺彦の面に、寂しげな微笑が浮かんだ。
「本当に?」
信じられない思いで尋ねると、朱鷺彦は頷いた。
「でも、他のことよりは弓が得意だった」
朱鷺彦は手結をゆるめて左の袖を捲ると、肘の内側から手首にかけてを指差してみせた。
「弓を始めたばかりの時、ここ一面が赤紫の痣になった。何ヶ月も消えないまま稽古をしていた。死に物狂いで習練してようやく、痣がなくなった」
そうだったろうか、と夕星は思いかえした。初めて朱鷺彦に会ったとき、彼は九歳だったはずだ。泣いている夕星を助けてくれた腕は白くなめらかで、痣などなかった。
内心首を傾げた。目の前を、雪のような花弁が舞い落ちていく。
「負けたくない相手がいたのだよ。その者には痣などできなかった」
朱鷺彦の横顔を見つめていた夕星は、わずかながら漂った緊張に気づいた。相手が誰だったのか気になったが、訊くことはできなかった。
弓掛を外そうとしていた朱鷺彦は、自分を食い入るように見つめる夕星に気づき、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「どうした。難しい顔をして」
笑われると急に恥ずかしくなって、夕星はかぶりを振った。
「何でもありません」
そう言って庭の方を向いたとき、一陣の風が桜の梢を揺らした。隣にいる朱鷺彦が見えなくなるほどに激しく、花びらが降り注ぐ。




