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風待つ朔  作者: 丹寧
第一部 風読 月夜見
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三十二 涙

 群青の天に昇った月が、白銀の光を煌々と放っている。巫女長が寝所の用意ができたと告げに来るまで、まだ間があった。


 葉隠が噂を仕入れてこない日は、話すことがあまりない。葉隠が身体の事に言及するのもあって、口を開くのは気がひけた。


「顔色がすぐれないようですが」

「暗くてそう見えるだけだろう」


 言いながらも、またあの眩暈が襲った。額を押さえるのを堪えた時、葉隠が言った。


「実は――お耳に入れておきたいことが」


 夕星は眉をひそめた。彼にしては回りくどい言い方だ。


「高良彦殿が出立前に巫女長に尋ねていました。風読の姫は、まだ風を呼ばないか――風に当たらなければ力を得られないが、勾玉の助けで持ちこたえているかと」


 夕星は唇を引き結んだ。


 自分は誰より風と結びついた体を持っている。だから弱っているのは自覚していたが、そのことは誰にも明かしていない。それに、風を呼ばないとは何を意味するのだろう。


「いずれ風を呼ぶ娘だと、大王が生前言ったそうです」


 脳裏で何かがざわついた。夕星が風を呼ぶ――いや呼んだと、大王が言ったことがあった。戦から還った時のことだ。


 ――玉杵名で雨を招き、宇土では風を呼んで軻遇突智の息子の火を消した。


「それらしいことを大王が言ったとき、高良彦殿はすぐに否んでいたが」


 ――風を呼んだ、は言い過ぎだ。


 彼にしては珍しく言葉尻をとらえるような言いかただったから、よく憶えている。


「貴女様に、悟られたくないからです。自分たちにないものが、級長戸辺の裔にあると」

「――そんな」


 呟きつつ、やはり、と思う自分もいた。


「大王がそれを告げられないよう、高良彦殿がいつも横にいたのでは」


 確かに高良彦は、常に姉のそばにいた。熊襲の呪いの話の途中で高良彦が現れた時、大王は残念そうな顔をしていなかったか。最期に二人で話したとき、風招ぎの娘と呼ばれた理由は何だったのか。


 今まで何ら違和感を覚えなかった出来事が、次々にひとつの結論を描いていく。葉隠が、静かだが断固とした口調で言った。


「あの二人に従って影でいることが、正しいとは思えません」


 夕星はしばし沈黙した。


「心配はありがたいが、影でいなければ生きることは叶わない。私が死ねば、其方の命も潰える」


 夕星は息を詰めた。この判断が、彼のせいだというつもりはない。自分自身が選んだことだ。科戸の館で死を覚悟したあの時と同じく、ただ状況に呑まれているだけではないかと言われようとも。


 葉隠は一瞬言葉に詰まったが、反駁をやめなかった。


「私のことではなく、夕星様はどう思われるのですか。貴女が貴女であることを奪われ、命を削られながら生きることを」


 胸を衝かれた心地がした。ずっと蓋をしてきた心を、葉隠は明らかにさせようとしている。とっさに声を高くして、夕星は言い放った。


「私の名を知っているのは、もとより其方だけだ」


 途端に強い眩暈に襲われ、両手に顔を埋めた。


 自分を夕星と呼ぶのも、科戸での過去を知るのも、葉隠ただひとりだ。影であろうとなかろうと、ずっとそうだった。


 でも彼は、夕星に決して姿を見せない。最も近しくいたい者に突き放されたままでいることに、いい加減心の均衡を保ってはいられなかった。


 常にそばにいるのに、誰より遠い。


「私を癒やすのは、風ではない。其方だけだったのに」


 夕星は振り絞るように言った。続く言葉にも、声の震えを抑えられない。


「其方を失いたくない」


 流すまいと決めていた涙が頬を伝った。


 ながらえるためなら手段は選ばないと決めていた。少しでも長く、葉隠といるために。台与の即位後に殺される恐れに、苛まれなければならないとしても。


 肩を震わせ泣く自分に、葉隠は呆れているだろうか。内心、ため息をついているかもしれない。冷静な彼には、夕星の心に立つ波風など取るに足らないことだろう。


 だが葉隠は、再び口を開いた。


「夕星様が望まれるのであれば、一つだけ考えがございます」

「何だ」


 ひたすら涙を拭いながら、夕星は尋ねた。


「熊襲国までお連れいたします。智舗国からお逃げなさいませ」





 夕星が日向大王と同じ孤独に苛まれないよう、心を護る必要がある。それがわかっていた葉隠にとって、他愛ない話で主の寂しさを和らげることに迷いはなかった。そしてなぜか、言葉を重ねれば重ねるほど、こごっていた彼自身の心が解きほぐれていった――今まで、凝り固まっていることにすら気づいていなかったものが。


 あれほど姿を見られたくなかった気持ちも、しだいに薄らいだ。


 同時に、夕星が今までにない苦しみに苛まれていることも理解していった。それは影の務めを終えると同時に殺されることへの恐れだったり、風から遠ざかった身体の衰弱だったりした。


 今日葉隠はもう一つ、風読に対する脅威を知った。高良彦たちは夕星を幽閉するだけでなく、彼女にとって重要な真実を遠ざけようとしている。


「王弟たちは、月読の勾玉が(よろず)の神の裔を助けることも隠しておりました」

「どういうことだ」


 勾玉のある胸元に手を触れ、夕星が尋ねた。


「詳しくは何も。しかし、大王が勾玉を常に持つよう言われたことと関わりがあるのでは」


 夕星は手を額に当てた。高良彦たちが完全な味方でないことは理解していただろう。あまり考えないようにしていた様子だったのが、その証拠だ。


「夕星様には風招ぎの力があって、それを利用されようとしている。ことがより深刻になる前に、多岐都様が言われたように逃げるべきです」

「熊襲はいずれ、火の山が暴れ出す」

「熊襲国すべてが死に絶えるわけではない。どこかに道はあるでしょう」


 夕星はあくまでかぶりを振った。


「追われることになる。大王の死が暴かれるし、風読を失うのだから。――それに私は、熊襲との戦いで表に立った。まぎれもなく彼らの敵だ」


 幾重もの(くびき)に囚われていることをあらためて感じたのか、夕星は唇を引き結んだ。


 葉隠はごく静かに、短く答えた。


「私が、お供いたします」


 小さく息を呑んで、夕星は沈黙した。彼は続けた。


「智舗でも、熊襲でも、どこであっても」


 覚悟は、伝わるだろうか。夕星が何をおいても生き延びようとしてくれたように、自分もまた、何をおいても夕星を護りたいことに気づいてくれるだろうか。


 何であってもいい、と思った。ここを出ると決めてくれさえすれば。


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