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風待つ朔  作者: 丹寧
第一部 風読 月夜見
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二十七 鳴動

 熊襲の渠帥者(いさお)の館は、山深い砦だ。


 大した人数を置かなくとも労せず守れる堅牢な砦は、山肌からひっそりと阿蘇の都を見下ろしている。凍てつく山で獣も鳥も寝静まり、梢が風に煽られるばかりだ。天は雲に覆われ、月はなかった。


 夜半に歩き回るのは、概ねいつも阿蘇津彦だ。彼は砦の櫓から、眼下の斜面を見渡した。射干玉(ぬばたま)の闇の中、息は冷たい夜風に吹かれて消えた。


 遠くに山鳴りが聞こえる。ここ一年で、微かな鳴動の頻度は格段に増していた。気を揉んでも軻遇突智神の意思が変わらないことは知っているが、焦りは緩やかに高まりつつあった。


 阿蘇の山は、遠からず火を噴く。


 熊襲の民はその昔、北上の旅を経てここへ辿り着いた。旧都を捨てて旅したのは、霧島の山が暴れて炎と灰が降ったからだ。そうして着いた地で再び火の山に悩まされるとは、火の神の裔に生まれた自分を呪いたくもなる。


 最初に地の鳴動を感じてすぐ、阿蘇津彦は智舗を攻めるよう鞠智彦に言った。山が暴れても火や灰を被ることのない領域を、少しでも広げておくべきだったから。そして、玉杵名と宇土を手分けして攻めると決めた。


 だが見慣れない智鋪の娘のせいで、どちらの戦も失敗に終わった。宇土のまやかしが暴かれたのも腹が立ったが、帰ってみると玉杵名にも例の娘が現れたという。その娘が知らせた雨によって、智鋪の作戦が始まったらしい。怒りはさらに増した。


 あの日雨が降らなければ、少なくとも宇土では勝てたはずだ。本当は同じ日にふたつの戦を仕掛けるつもりだったが、雨のため宇土の侵攻は翌日にせざるを得なかった。火の幻は晴れた夜にしか現れないからだ。同日に攻めていれば、智鋪の都人は玉杵名にしか来られず、宇土は確実に獲ることができただろう。


 奇妙なことだった。阿蘇津彦のまじないでは、あの夜雨は降らないはずだったのに。


 単純に腹を立てていた阿蘇津彦と違い、鞠智彦は娘が誰か気になるようだった。よくわからないが気に入ったらしい。国境で偶然会ったときから、美しいと思っていたそうだ。阿蘇津彦としては、その時に捕まえるか殺すかしてくれていれば良かったのにと思った。


 阿蘇津彦は男心も女心も知らないが、鞠智彦が夢で娘を取ろうとするのを手伝ってやった。自分の腹立ちを収めたかったのもあるが、大怪我を負った弟に何かしてやりたかったのだ。


 麾下の射手に、呪いの矢であの娘を射るよう頼んだのが役立った。命中はしなかったものの、負わせた傷から呪いが入り込んだ。


 ところが娘は手ごわくて、鞠智彦が襲いかかろうとするといつも目を覚ましてしまった。名を知らないので、これ以上強いまじないはかけられない。宇土で風がどうとか言っていたので、夢では風が吹かないよう気をつけていたのだが。


 暫くすると娘は、御笠から姿を消してしまった。どこへ行ったかは知れない。そう伝えると鞠智彦はたいそう悔しがった。


「よほど気に入ったのだな。男の執着というものには呆れる」


 げんなりして言うと、鞠智彦は兄を睨んだ。恋する男は弱い。


「男でも女でもない其方が、わかったように言うな」


 阿蘇津彦の身体は、男と女のどちらでもあった。だからどちらでもないとも言える。兄弟の間では慣れたやり取りだったので、阿蘇津彦は息をついただけだった。


「夢では左腕が動くのだから、簡単に捕まえられたはずだろうに」


 阿蘇津彦の身体は華奢すぎて戦ができない。だから、勇猛な弟が長になってくれて助かったと思っている。しかし鞠智彦は玉杵名で誰とも知れない兵衛に左腕を斬られ、二度と動かせなくなっていた。傷口は綺麗に治ったにもかかわらず。


 片手で剣を扱ってはいるが、以前と同じようにはできない。武人としての威信で国を率いてきた鞠智彦にとって、手痛い打撃だった。


 玉杵名と宇土の敗北を経て阿蘇津彦は、戦で智鋪に勝とうとすること自体が無謀なのではないかと思い始めていた。


 彼らの父があまりに智舗に楯突きすぎたせいで、熊襲は今さら智鋪に迎合できる立場にない。(くだ)ったところで、手ひどく弾圧されるのは目に見えていた。ならば相手に勝とうとするしかないが、正攻法はすでに充分すぎるほど試したし、そして負けた。正面から戦いに行くより、別の方法が要る。


 手の甲の刺青を撫でながら物思いに沈んでいると、鞠智彦がやってきた。夜は前後不覚に寝ているばかりの弟が来るのは珍しかった。


「どうしたのだ」

「山が震えるので目が覚めた」


 そう答えた鞠智彦は闇に沈む郷里を眺めた。その横顔は巌を切り出したように荒々しく美しい。阿蘇津彦は思い出したように言った。


「今度、日向大王の館を久々に見に行こうと思う」

「そうか」


 弟は武骨な顔にかすかな期待をにじませた。たかだか二度見ただけの娘を、どうしてこれほど好きになれるのだろうか。阿蘇津彦の呆れをよそに、鞠智彦は尋ねてきた。


「あの娘がいないのに、様子を見に行けるのか」

「たまに俺が憑りつける依代がいる。だが、下っ端のようで大したことを知らない。あまり役には立たなさそうだ」


 鞠智彦は何か言いたそうに黙していた。


「何だ。言いたいことがあるなら言え」

「まじないとは、肝心なところで役に立たぬ」


 さすがに苛立ったので、阿蘇津彦は言った。


「お前もやってみてから言え。何でもできるならばとうにあの娘も、お前を斬った武人も見つけている」


 普段の喧嘩っ早さは、阿蘇津彦のほうが上かもしれない。鞠智彦は必要とあらば獰猛なまでに猛々しくなれたが、そうでなければ割合に冷静だ。彼は兄に尋ねた。


「本当に間者を送りこむのはどうだ」


 鞠智彦がどれほど本気で言っているのか、よくわからない。だが阿蘇津彦にとっては願ってもない言葉だった。彼はにやりと笑みを浮かべた。


「俺も同じことを考えていた。智舗の都に間者を送ってやろう」


 兄の素直な賛同を不思議に思ったのか、片眉をあげた鞠智彦に彼は言った。


「ちょうどお前に相談しようと思っていたのだ。――日向大王を殺そう」


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